橋を渡る

橋を渡るとき、いつも橋の下を見下ろしながら歩く。広大な河川敷には、野球のグラウンドが二面しつらえられていて、ユニホームを着た子供たちが各ポジションについて、まるで色とりどりの小さなミニチュア人形か駒のように、ピッチャーの子が投げて、バッターの子が打つ。それを、バックネット裏やベンチの後ろで見ている大人たちが喝さいする。高い場所から見下ろしてると、それらの様子全部が、まるで水槽の中の魚、あるいは虫かごの中で巣穴を掘り進む蟻の動きを、上から覗いているときのようだ。

橋を渡る手前で、長打が出て、走者一巡というくらいの得点がなされて、橋を渡り始めてしばらくしたら、試合終了となった。子供たちが一列に並んで向かい合って一礼して、そのあと各陣に分かれてコーチ監督や保護者の皆さんにも一礼する。大人たちは拍手で応える。それらすべては、芝生の上の小さな座標点の動きだ。群れの移動が進み、グラウンドが整備され、後片付けがはじまる。

その様子も、橋を渡るにつれてじょじょに視界から消え去り、やがて真下の景色全部が、川面になる。子供たちの姿も大人たちも、野球も色とりどりのユニホームも、芝生も土も光も、すべてが消えて、そんなものははじめからなかったかのように、見下ろした視界一面すべてが水になる。それは消失や破壊という感じでもあり、純粋な抽象の出現という感じでもある。この視界の変容には、いつも衝撃を受ける。この橋をこれまでいったい、何十回、何百回渡ったのかおぼえてないけど、たぶん渡るたびに、一々そのことに驚いている。