記憶の酒

酒の味というものはしばしばいまげんにすすっているそれをのぞいては過去に何百杯飲んでいても容易には思い出せないことがあって、不思議である。

(開高健マジェスティックのマーティニ」)

開高健の雰囲気をがっちりと作りこんだ酒場系のエッセイのカッコよさは、たまに読むといまだに「おお…」と呻きたくなるものがある。カッコいいというか、とにかく酒をいいあらわすのが上手すぎる。

しかし、そもそも酒の味というものは容易に思い出せないのだと、前述のことばは言っている。思い出せないはずの味をいいあらわすのに、味覚だけではない、酒を飲む者ならだれにでも思い当たるはずだが、それでもけっしてそのようには考えたこともなかったのに、そう言われたらたしかにそうだった、そのことに今まで気づかなかったことを後悔したくなるような、そんな言葉ばかりが集められて、意表をつくところからその味わいを追体験させてくれ、思わず「おお…」っと呻きたいような感触をもたらしてくれる。

私はコンチネンタルには泊まったことはないけれどマジェスティックにはある年、三か月近く泊まったことがあり、その後きたときには、夕方になればよく飲みに出かけたものだった。世界各国からきた無数の新聞記者やアメリカ将校たちがよってたかって鍛えあげたのだろう、ここの酒場のバーテンダーはナイフの刃のように研ぎあげたドライ・マーティニが作れるのである。

(同上)

これははるか昔の、サイゴンのホテルのことを言ってる。しかし僕は思うのだが、きっとそんな酒場はないのだ。今もないし、じつははじめから、そんな店は実在しないのだと思って読んでいる。いや、ありますよ、作家は実際に、その店で飲んだんですよ、と言われても、なるほどそうですか…と応えるだけで、自分の考えは変わらない。この世に、そんな店もそんな酒も実在しない。客によって鍛えあげられた酒というものは、仮にあったとしても僕が口にすることのないものだと思う。というか、こういうのこそ、フィクションということだろうと思う。しかし、だからと言ってそれが悪いわけではない。