フィクションの酒

酒を飲む人は、多少乱暴な言い方をするならば誰もが多かれ少なかれ、酒を飲んでいるうちに、手持ちの時間がみんな流れてしまえばいいのになと思っているところがある。自分に与えられた、限られた貴重な時間を、酒を飲むことで、大方費消してしまってかまわないと思っているところがある。これは理屈ではなくて性癖とか体質のようなものとしてそうだ。

あるいは酒を飲んでいる時間だけは、自分の時間が何か価値あるものかもしれないという、その可能性を一時的に信じられるというか、飲んでるときだけ、その時間が特別なものに思える。むしろそう思えてしまう作用こそ、酒のもっとも危険かつ魅惑的な効能であるともいえる。

それは空間とか雰囲気の再現ではないし、筋立てや因果の流れでもない、あるしきたりに人間がしたがっているということだけが示されている、それをさもありなんと感じてしまう、それはたしかにそういうものだろうと思わずにはいられない、そう思うのは自分だけではないのだ。おそらくたくさんの人がそう思うのだ。にも拘わらず、それは現実ではないのだ。それを現実でないということに気づいてない人は少なくないが、現実ではない。

いかにもありそうな、自分が知らないだけで、世界の向こう側はきっとそうなっているのだと、おもわず素朴に信じてしまうような力、それがフィクションの力であり、また酒の力でもある。

ドライ・マーティニのグラスを持って窓ぎわにすわると、グラスの肌にたちまち無数の霜の微粒ができて、小さいけれど透明な北方の湖は霧にかくれる。空は暑熱と湿気でとろりとうるみながらも、炎上する緞帳のように輝き、無数のコウモリとツバメが夕焼けのなかをとびまわる。黄いろい河をつぎつぎとウォーター・ヒヤシンスのかたまりが流れていき、河岸では子供たちが魚釣りをし、スルメやエビ・センベイの屋台があちらこちらで夜の支度にかかり、対岸は蘇鉄やマングローヴの低い長壁が水ぎわにずっとつづいているが、その背後には原野がひろがっていて、夕霞にかすんでいる。ハマグリ型の菅笠を満載した渡し舟がいったりきたりしている。対岸に上陸した菅笠の人群れはたちまちどこかへ散って見えなくなる。そのあたりには歯磨の大きな看板がたっていて、Hynosという字も、『黒人牙膏』という漢字も、真っ白な歯を剝きだして大口あけてゲラゲラ笑ってる黒人の顔も、ここからよく見える。

(開高健マジェスティックのマーティニ」)

フィクションだと思うから、これを読んでひたすら陶酔していい。こんな景色を見ながらドライ・マーティニを飲む、それはある理想形であろう。しかしそれは、ぜったいに実在しないもので、読むことのなかにしか像を結ばないものだ。読むことでしか味わうことのできない味である。