嚙合わせ

つい忘れたり、うっかり道を間違えたり、最後の詰めが甘くて見込みが外れたり、ここ数日の自分の行動のはしばしに迂闊さが感じられる。いつもと同じ感覚を保っているとの自覚はあるのだが、なぜか歯車が噛み合わないというか、かすかに聞こえるこの音はもしや噛み合ってない歯車の立てている音ではないかという不安をもつ。たぶん自分の意識外のどこかで、動きが雑になっているのだろうと思う。自分の本来含有する不徹底さやいい加減さは、それなりにわかってはいるつもりで、わかっているからこそ大体の予測に沿って、かろうじて物事を進めているのだが、たまにこうして、その感度が鈍くなるときがある、のではないかと思うが、自分ではわからない。悪い予感みたいな、もし今ふいに不運に見舞われたら…みたいな想像みたいなものとしてしか、意識できない。身体の健康状態と一緒で、いまがすこやかなのか、何かしら悪いところがあるのか、そう割り切って把握することはできない。ほんの少しの感覚的ブレ、やることなすこと裏目に出るとか、小さな失敗が続くとか、妙にネガティブな場面ばかり気になるとか、そういうことは、それはそれで現実としてある。それはそれでしょうがない。それもそれで現実だと知るようにつとめるのが良いのか、それはそれだね、と簡単にまとめて忘れるのが良いのか、それもまたそのとき次第の行き当たりばったりで判断するのが良いということか。たしかに行き当たりばったりで判断するのが良いと思って納得できる感覚のほうが汎用的だし便利だ。