メソッド

日本の、大岡昇平とか島尾敏雄とか、戦争をテーマにした彼らの小説というのは、自分がじょじょに日常から戦争へ移行していく、なすすべなくそうなっていく、まるで時間のように、自らの生の収束のように、それへと変異していく過程を、できるだけ細密に再現しようとする試みるその過程において、自分がかりそめのひとときに一瞬だけ日常を縮小反復して、その仕掛けた差異によって小説を活性化させようとしている感じがする。与えられた時間、課せられた条件下を、そのようなとらえ方でなんとか生き生きさせようと試みる感覚は、今でもまったく古びてはいない、今でも我々の心を支え生きさせるためのメソッドだろうと思う。そのような意味でそれらの戦争小説はいまでも、あえて言えば身につまされる。

ところでクロード・シモン「フランドルへの道」は、最初から最後まで、錯乱した視点と距離感覚のまま、時系列は乱れ、登場人物は重なり混交し、語り手の立ち位置も揺らいでいて、ただしおそらくこの小説は誰かがある(おそらく困難な)状況で、錯綜する記憶をひたすら反芻しながら呼び起こしているときの、その出力状況がそのまま描かれているものなのではないかと、それは読み始めてかなり早い段階で、そんな仮説を立てることは出来る。

地面に這いつくばって、じっと前方を見るとき、きわめて狭められた視界の先は、行軍の車両と兵隊の足、その向こうに切り取られた景色、泥にまみれてそれを見つめ続ける。

あるいは馬に乗って、いきなり銃撃を受けて、前方の仲間が被弾したのを見る、その直前まで彼らの後頭部を見ていた、彼とその前を進む馬を見ていた、ここでも視界は全容を見ず、連なる騎馬兵の一員である自分から見た前景しか見ていない。

何度もくりかえしあらわれる性的なイメージ。男は女の身体を接写レンズのように眺めまわし、まさぐる。ここにはもはや距離がない。ほとんど推測のようにして、おそらく二人の身体があべこべに重なり合っている。お互いがお互いの生殖部を口に含んだまま、まるで軟体動物のように癒着しているようなものを想像させる。語り手はひたすら視線を移していく。しかしこれはもはや見る行為ではない。

この小説の最後の方で、はじめて客観的な距離感を感じさせるイメージがあらわれる。それは地図だ。「大地の表面を移動していく「けしつぶ」(傍点)みたいなわれわれ四人の姿とその影を想像してみると、それはわれわれが十日前に敵軍を迎撃するためにとった進路とほぼ平行な道を逆方向にたどってゆくので…」(280頁)とあり、各部隊の全体的な布陣と移動のイメージが描かれるのだ。しかしこの地図的俯瞰のイメージもまた正確さや認識や把握を感じさせる筆致ではなく、各村や部落に与えらえた名前の面白さへと流れていってしまうし、移動の行程のうねうねジグザグした形状から線や点的な把握が崩壊していくことの予感へとつながっていくようだ。

形式というのは、メソッドだ。とりあえずそのやり方で成り立つかもしれない、その自分の賭けを自分自身に信じさせるためのかたちだ。その信じる力の強靭さが、長い時間をかけて読み手を説得し続ける。これでいいのだとくりかえし主張する。それは物事に賛成とか反対とかを口にするレベルの話ではない。読み終わってからも記憶に残るのは、誰だか知らぬ誰かの頭の中にできあがったものの、得体のしれない強靭さだ。