島尾敏雄の空間

島尾敏雄「出孤島記」の主人公は、ベニヤ製の一人乗りボート船頭に爆弾を積んで、それで乗船員もろとも敵艦に体当たりする特攻用舟艇乗組員たち数十人の部隊を率いる隊長である。南の小さな島の入江に拠点を構え、本部から出撃の命令が下るまで待機を続けている。彼らはすでに死を覚悟しているけれども、下令が届いたときにいよいよ自らの死が現実となる、今このときと、来たるべきそのときとが、混ざり合うことはないまま、主人公の頭の中で消えることなく攪拌され、諦念でもなく絶望でもなく、およそあらゆる感情や感覚の彼岸のような場所で、答えのない問いに囚われ続けている。

戦争経験者によるこのような小説が、戦後の日本に幾つも生み出されたのは自分も知っている。その文中「~だろう」「~のはずだ」「~ではないか」といった、近い未来を予想するような、未生を想像するような語尾が頻出するのは、引き延ばされた極限状況を待ち続ける立場の人間である以上当然のことだと思うが、しかし今更ながら思うのだが、このような小説が、日本ではなく諸外国にはありうるのだろうか。戦争を描いた小説は数あれど、この小説の登場人物たちのように死の命令を待ち続けるというのは、これは誰にでも可能なことだろうか。もちろん同じような状況、条件、立場に置かれた部隊、軍、人間は、世界各国に例外なく存在したであろうが、しかし絶望に閉ざされた自らの「これから」についての、このような「待ち方」「受け止め方」をする人間についてならば、この作品に描かれたような事例と、あといくつかの日本の小説に残されたものが、世界的に見てもほぼ唯一とまでは言えないのだろうか。

主人公の「自殺艇」は、粗末なベニヤ製の小型ボートで、エンジンも非力で低速であり、いざ出撃したとしても、おそらく目標に到達できる見込みさえ疑わしいようなものだ。戦局は悪化し、制海権は敵軍に完全に奪われているのを誰もがわかっていて、来たる自らの犠牲が、今や何の意味も持たない無益な結果となるのは自明である。にもかかわらず、主人公は「目的=死」に向かって自分を律することをやめない。恐怖や不安や虚無に、ときにつよく揺らぎつつ、慄きつつ、自意識の葛藤に苛まれつつ、しかし最終的には「目的=死」だけが、逆に揺るがぬ芯となって彼を支えてくれているかのようだ。くりかえすが、このような心情の持ちようは、外国人にも可能なのだろうか、それとも日本人という「民族」の固有性を、それは表現しているのだろうか。

僕は「これは日本人には可能かもしれないが、外国人とくに欧米の人間に、そのような心性を維持することは不可能では」と一瞬思ったので、そう書いている。たとえば西欧的な思考や、キリスト教的宗教感覚を基盤にもつ彼らなら、あらゆる意味でもっと「合理的」な判断を下すことができて、そのような心性の維持に価値を見出さないのではないかと一瞬思ったので、そう書いている。

「宿命」みたいなものは、一種の抽象であるはずで、その意味では「神」も似たようなものだと思うが、出撃の下令を待つ彼らは、まるで「神」を信じるように「宿命」を信じている感じがする。上層本部の決定や国家の戦略や手持ちの装備がどれほど愚劣で粗末であっても、そういうこととは無関係に、「宿命」にしたがうことが是とされている、この作品には、そのような「空間」が描かれているという感じがする。その「空間」とは、国家のことなのか民族のことなのか国民感情や共同体のことなのか同調圧力のことなのか、それはわからないが、なにしろそういう「空間」がたしかにある。それはとりあえず「日本の」なのか違うのか、どうか。

というか「死」も、最後まで具体的なものではありえず、それこそ抽象の最たるものである。だからここでは、まるで「神」を信じるように「死」をも信じることができるか?が試されていると言えるだろう。それが行き着く先は、当然もう日本も外国も敵も味方も問題にならない、戦争も平和も意味がない、もはや一個の抽象を信じることの可否だけしかない、しかも生と死、結局それはつまらぬ外的要因によって実際に来たり来なかったりする。そのとき極限にまで突き詰められた感覚の一番先端に、薄くまるで脇腹にさわられたような、妙な可笑しみが湧いてくる。

島尾敏雄のどの作品にも、見えない背後でうっすらと漂ってるような、何か得体の知れない、アイロニカルな感じ、半分ふざけて笑い出しそうになるのを堪えて、異様な真面目顔を保ってる感じ、それでどうにか人間の恰好をしているのだけど、ちょっと気を許して一瞬先に崩れたら、もう何も跡形も残らない、終わりすら終わってるような、どうしようもなく身も蓋もない感じ。