組織が個人としての自分に課す、目的や規則や命令が、個人を律してくれるものだというのは、僕も肌身で実感しているというか、それはよくわかっているつもりで、悲しいかな人間とは他所から目的を与えられなければ充実感も自足感も得られない存在であるという、それは動かしがたい事実だ。

たとえば昭和ひとケタの世代が、戦中から戦後にかけてのとんでもないインフレによって、金銭というもの、経済の仕組みや価値を、根本から信頼できなくなってしまったりとか、空襲であたり一帯焼け野原になった景色を眺めることで、家屋敷など不動産やその他資産といったものがじつは表層に過ぎず、本質はなだらかな勾配をなす泥の地面のひろがりだけが自分の基盤でしかないと悟ってしまったりとか、そういう強烈な原体験、原風景の体験をもっているようには、自分はこの世の価値に裏切られてないので、そのような人間こそが、何かが差し出してくる目的や価値に自分の輪郭を与えられてしまうのは否めない。

死の出撃を待つ日本兵と比較したくなる思いで、セリーヌ「夜の果てへの旅」の冒頭、戦場にいる主人公を思い浮かべる。あるいはシモン「フランドルへの道」で戦場あるいは収容列車内のジョルジュたちを思い浮かべる。日本兵の心の中とフランス兵の心の中、いや、それは国家別ではなくて、それぞれ別々の心の中だ。それが同じようなものだと、言えるだろうか。それらはまるで全然似たところがないように思える。これが同じ人間の同じ心の中だと考えるのは難しいのではないだろうか。