子供の頃、柿が好きではなかった。果物は全般好きだし、柿だって食べられないわけではなくて、食べれば美味しいとも思うのだが、なにしろ柿は、食べたときの当たり外れの差があまりにも大きすぎた。渋柿は論外だが、いわゆる熟柿も、嫌いだったし、今でも好まない。食わず嫌いによる拒否感なので、じっさい食べてみたら美味しいのかもしれないが、食べてみようとはまったく思わない。

干し柿も好きではない。昔も今もそう。食べられないわけではないけど、わざわざ食べたいものではない。古い家の軒先にぶら下がってる干し柿を見たとしたら、あー、なんかいい感じの景色ですねー、とは思うだろうけど、美味しそうだとは思ってない。他人が食べるのは勝手だけど、食べ残したヘタの部分、あれって、なんか汚らしい、とも思っていた。

しかし適度な硬さの果肉、適度な糖度、その要素をともなった柿なら、食べられるし、美味しいと思う。最初から美味しいとわかっているなら、それなら食べる。文句はない。ただ細かいことを言えば、種を取り囲むようにある少し質の違う果肉の触感の違い、それと種をじかに噛んでしまったときの苦みというか、木の成分を口に入れてしまったようなあの感触は、あれは、やや気になる。

ところで昨今は季節柄、柿がスーパーにたくさん並んでいて、妻が買ってくると、柿もたまに食べるのだが、それにしても最近の柿はじつによくできている。前述したような、僕でも美味しいと感じられる要素を、当然のごとくすべて兼ね備えていて、しかも品質が異様に安定していて個体差がほとんどない、どれを食べても、同じ味がする、まるで工業製品にような均質性である。あと、これもすごいことだと思うけど、最近の柿は種がない。柿にかぎらず、最近の果物を、美味しく食べやすいように成長させる技術的な制御というのが、ごく当たり前のことなってきたのか。おかげで僕でも、安心して柿を食べることができるわけだが、それでも食べていると、ときおりほのかに、ああこの感じ、この香りが、かつて嫌いだったのだ、今や遠い記憶みたいにしか感じ取れないけど、元々、この独特さを受け付けられなかったのだ…などと思い出させてくれるものが、ほんの少しだけある。たぶんそれこそが、ほんとうに柿が柿たる部分である。