身体

「彼自身によるロラン・バルト冒頭に掲載された写真に添えられたコメントに、はっとするような、強い印象を受けた。

晩、家へ帰るのに、よく海岸通りを鉤の手に曲がり、アドゥール河へ沿って歩いたものだった。大きな木、打ち捨てられている舟、何となく散歩している人々、漂う倦怠感。あたりには、公園の性欲がさまよっていた。

バルトが嫌うのは、誰の身体でもないものから出る「死んだ反復」で、「身体に由来する反復」にバルトは快楽を感じる。その反復が、彼を愛撫し、安息させる。バルトの安息とは、そのまま享楽で、ドグマを回避したテクストの自律運動がめまぐるしく動き回るほど、バルトはますます「安らか」になる。

(以下は、なんとなく「モロイ」が言いそうなことの気もする。)

私の身体は私自身にとって、ただ、なじみぶかいふたつの形態でしか存在しない。すなわち、片頭痛と官能的欲望という形態だ。いずれも別に驚くほどの状態ではない。どころか、まことに軽いというべきか、周囲の影響で変わるような、あるいはすぐおさまる底のものだ。どちらの場合も、身体についての栄光に満ちたイメージや呪われたイメージへの期待を捨てることに決めた、その結果とでもいうような感じなのだ。片頭痛は身体的苦痛の、ほんの一段階にすぎないし、また官能性とは、通常、いわば引き取り手のない売れ残りの享楽の一種としかみなされていないものである。
 言い換えれば、私の身体は英雄ではないのだ。苦痛あるいは快楽(片頭痛もまた、ときには私のすごす一日を《愛撫》することがある)の軽やかで拡散した性格は、身体というものが私たちにとって異様な幻覚的な場所に成立するものだという事実、過激な違反の場所だという事実と、対立している。片頭痛(私はただちょっと頭が痛い場合をかなり不正確にそう呼んでいるのだ)と官能的な快楽は体感であり、何かの危険と引き換えに私自身の身体に栄光を獲得させるようなことなしに、しかも私の身体の個別性をあきらかにしてくれる役目をはたす、体感にほかならない。私の身体の、それ自身に対する演劇性は薄弱である。

ドグマ、二元論を越えたテクスト=身体の自立的運動が、そのまま「安らか」であるということ、それはたとえばある時期のジャズの、あらゆる枠をふりほどいてバラバラに細分化された粒状領域にまで突き抜けてしまおうとするときの、自分自身までをも溶解するのを願うかのような昇華的なイメージとは、ずいぶん違う。快楽を感じれば「安息」するし、そうでなければ「倦怠」する。バルトにはどちらにしても動きがない。身体からのフィードバックを強く感受しているのだろうけど、外から見たときバルトという人物自身はまるで動いてなく、その身体に何が起きているのか、外からでは判別ができない。