死せる写真

写真が絵画とも映画とも違うのは、写真とは究極的に、それを「見る」ことが出来ないというところにある。もし私が写真を見て、何かが心に引っ掛かったり、ある何かの思いに駆られたとしたら、その写真に「プンクトゥム」があるからと言えるのかもしれないけど、「プンクトゥム」とは「ほとんどの写真」に含まれないが「一部の質の高い写真」には含まれている、などといったたぐいの要素ではない。そもそもそのような、人々によって共有可能な質の良悪を問えない、それが成立しないような媒体が写真である(媒体とも言えないのかもしれない)。ただし(ストゥディウム的な)写真自体から、個人的動機にもとづく兆候を勝手に読み取ってしまうならば「プンクトゥム」があると、その個人範疇内において言いうる。

プンクトゥムがあれば、ある見えない場がつくり出される(推測される)。(中略)ボブ・ウィルソンは、その位置が決定できないプンクトゥムをもっているので、私は彼に会いたくなるのだ。

(ロラン・バルト「明るい部屋」69ページ)

観る者が写真に「プンクトゥム」を見出したとき、写真は写真の外に対する推測の余地を生み出すことになる。くりかえすが、これは写真の質とはまったく関係ない。

結局のところ---あるいは、極限においては---写真をよく見るためには、写真から顔を上げてしまうか、または目を閉じてしまうほうがよいのだ。《映像の前提条件となるのは、視覚である》、とヤノーホがカフカに言うと、カフカは微笑してこう答えたという。《いろいろなものを写真に撮るのは、それを精神から追い払うためだ。私の小説は目を閉じる一つのやり方なのである》と。

(ロラン・バルト「明るい部屋」67ページ)

写真は何も言わない。音楽や絵画や言葉といった事象・媒体が、じつはその存立起源において、(神様からの賜物のごとく)人間のことをどこかで考慮してくれていて、人間に送られた幸いな賜物であることを、存立の内側に秘めていて、それが祈りのようにかすかな力で稼働し続けているのだとして、それが芸術を芸術たらしめているのではないか、などと…そんな馬鹿な想像も、許してもらえるような何かだとして、しかし写真にそんな余地は、おそらくまるでないのだ。それは機械=自然の一環であって、写真は人間をいっさい考慮しない。人間が見るということさえ、はじめから想定していない。

だから目を閉じなければ見えないものは目を閉じて見よと、写真が言うわけでもないが、目を閉じなければ見えないものがあることを、逆説的に教えはする。

目を開けて写真を見たとき、写真は「動かない」ということと「それは、かつて、あった」ということの二つしか示さない。それ以外の一切が写真にはない。関係でもなく、座標位置でもなく、構成でもなく、連携でもない、「動かない」とは、そういうことで、そこには何の可能性もなく、いっさいの未来が含まれない。バルトにとって「写真」とはそういうものだ。