歴史、母

目を開けて見ることのできるもの。それは所詮「似ているか、似ていないか」。似ていることを認めても、それを見たことではない。「そっくり」だとしても、むしろ失望しか呼び込まない。

バルトがここで語る「愛」---という言葉を使うより他にすべがないと思われるような、ある激しい執着と恋慕と悲しみをまとった---の言葉に圧倒される。それはまるで「怒りと悲しみ」に満ちた孤独な人物の、言葉による渾身の抵抗---愛する人を出来るだけ正確によみがえらせるための---という感じでもある。

何への抵抗なのか?それはたぶん「失われていくこと」に対して。そして同時にここには、喪失に対するかすかに甘いあきらめの要素も漂っているかのようだ。もはや手の施しようもない事態のなかで、せめて自分の心の中に、このかけがえのなさを何度でも確かめて残りの時間を過ごそうと。愛する人が死に、それを思い出しているこの私もいずれ死に、そしていつかすべてが失われ消え去っていくとき、惜しみながらもそれを受容する、ということでもあるだろう。かつて「歴史」があった。しかしもう、これからはそうじゃないよと、これからは「平板な死」と引き換えに「時」が、永久にそれを手放すことになる(もう失われた)のだよ、後世の我々にも、そのことをそっと教えようとする姿でもあるだろう。

母の写真の大部分を私から分け隔てているのは、「歴史」であった。「歴史」とは、単にわれわれがまだ生まれていなかった時代のことではないだろうか?母が身に着けている衣服を見て、私は自分がまだ存在していなかったということを読み取る。私はその時期の母を思い出すことができない。身近な人がいつもとちがった服装をしているのを見ると、何か唖然とさせられるものだ。一九一三年頃の写真を見ると、外出着姿で盛装した母は、トック帽をかぶり、羽根飾りをつけ、手袋をはめ、袖口と襟まわりに薄地のフリルをひらひらさせ、《小粋な》身なりをしている。が、その身なりとは裏腹に、母のまなざしはやさしく気取りがない。

(中略)

さてそうなると、重大な疑問が生じはじめた。私は母を本当に再認・認識しているのか?と。

(中略)

他の何千という女性のなかにいても、私は母を認めたことであろうが、しかし、母を《見出した》わけではなかった。私は母を、本質によってではなく、差異によって再認・認識していたのである。かくして写真は私に辛い作業を強いた。母の自己同一性の本質を目指して、私は、部分的に正しい映像、ということはつまり、全体として誤っている映像に取り囲まれて、もがいていたのだ。ある写真を見て、《母そっくりだ!》と言うときのほうが、ほかの写真を見て、《まるで似ていない》と言う場合よりも、なおいっそう辛かった。そっくりであるというのは、愛にとって残酷な制度であり、しかもそれが、人を裏切る夢の定めなのである---私が夢を嫌うのは、そのためである。私はたびたび母の夢を見る(私は母の夢しか見ない)が、しかしそれが完全に母であったためしはない。

(中略)

---母は決してそんなふうではなかった。夢のなかではまた、それが母だと知っていても、母の顔立ちを見ることができない(夢のなかでは、いったい見ているのか、それとも知っているのか?)。私は母の夢を見るが、夢で母を見るわけではないのだ。そして写真を見るときも、夢の中と同じ努力、同じように際限のないシシュポスの作業が繰り返される。本質を目指してよじのぼるが、それを目にすることもなく転落し、また最初からやりなおすのである。
 だがしかし、そうした母の写真においても、一つだけ、必ず予約され保証されている場所があった。母の明るい眼である。この時点では、その眼の明るさは完全に物理的な輝きにすぎず、ある色彩、母の瞳の緑がかった青い色が写真に写ったものにすぎなかった。しかしその光はすでに一種の媒介であり、私をある本質的な自己同一性のほうへ、愛する母の顔の精髄のほうへ導くものであった。そのうえ、そうした母の写真はみな、どれほど不完全なものであるにしても、母が写真を《撮られる》たびに感じたにちがいない、その感情を正確に表わしていた。母は断りたい気持ちが《態度》に表われはしないかと気遣いながら、撮影のために《顔を貸し》ていた。カメラの前に立つというあの試練(どうしても避けられない行為)に慎み深く成功していた(慎み深くとはいっても、卑下したり敬遠したりする、ぎこちない芝居は少しもしていなかった)。それというのも、母はある精神的価値の代わりに、それよりも高い価値、礼儀上の価値に従う術をつねに心得ていたからである。私はいつも自分自身のイメージと格闘したが、母はそんなことはしなかった。母は自分の姿を予想したりはしなかったのだ。

(ロラン・バルト「明るい部屋」76~81ページ)