ライオンは寝ている

古谷利裕「ライオンは寝ている」(早稲田文学 2021秋号)を読んだ。

わたしがいて、姉がいる。弟だと姉の言う男がいるけれど、その男はわたしには見えない。あと、おそらくわたしが「兄さん!」と呼びかけたい、そんな存在がいる。

かつてトナカイだったわたし、トナカイの毛皮を着てトナカイの角を生やし、カウベルの付いたトナカイたちの引く橇をあやつり、刃物でトナカイを解体し、トナカイを食べる男、四万年も前から続く営み、それを続けてきた民族としての、そんなわたしでもあり、それが「兄さん!」でもある。さらに、その様子を見つめている子供としての「兄さん!」でもある。そんな兄さん、さっきテレビで見たイメージを借りた、そんな兄さんを信じている。

わたし?それは誰か。たぶんわたしは、真っ暗な押入れの中のベッドに横たわって、想像に耽っているだけ。しかしそのわたしも含めて、この小説が誰によって記述されているのか、そこに中心となる語り主はいない。わたし、姉、兄、お爺さん、そして飼い犬、

(「弟」は姉にとっての弟であるからには、わたしにとっても「弟」であるが、得体の知れぬ外部者の気配もある。義理の弟?そんなはずもなく、その男はわたしにとって不穏な存在で、姉に対して妙に子供っぽい感じもして、つまり結局、弟=わたしでは?とも思う。)

そんな、ある家族について描かれた、わたしと家族と、住まいと生活の、積み重なったある記憶のかたまりについての(そして、その記憶が消えていくことの)小説だと思う。

姉が「弟」と共に階段をのぼる音が聴こえ、姉はそこに扉があることをはじめて知ったのだろうと、わたしは想像するのだが、それは同時に姉の想像でもある。たぶん扉の向こうの部屋では、わたしにとってたしかな想像と、姉にとってたしかな想像とが、ひとつの空間内に混在してしまっている。「弟」はおそらく姉にとってたしかな想像の産物で、姉にとって弟は存在しているのだがわたしには見えない。また立派なテーブルの上にあるガラスのピッチャーが、わたしにとってはたしかな想像の産物であるのに、姉にとってはたしかなものではないから、彼女の存在はそのピッチャーをすりぬけてしまい交わることがない。わたしから見て、そのピッチャーと中に入ってるレモンの破片、それらの存在感は、まるでとってつけたかのように鮮やか過ぎて、その液体の冷たさに思わず身がこわばるような、レモンを見ただけで思わず口の中に唾液が湧き出てくるほど、そのイメージは生々しくて、それがかえって、それらレモンとピッチャーだけ、わたしの領域に属していることの証拠かもしれない。

ただし、姉とわたし両方の領域を行き来できるのかもしれない「兄さん」を、わたしが何度でも呼ぶ、あるいは呼ぶ声を聴いている。兄さんは太い黒松の梁を、まるで猫のように伝って移動し、一つのレモンを「肥後守」のナイフで切る。その切り口は鮮やかだ。四万年前からの記憶、階段。

わたしが、そんな兄さんを想像しているからこそ、兄さんがこの梁や屋敷や階段を想像して、そこに私は住むことが出来ているし、姉も今まで気づかなかった階段の先のドアの存在に気づくことができた。何もかもが、たった今出現し、それによって物事の因果が事後生成されるのだ。それは「兄さん」によってもたらされる。ならば、もしかしてこれら全部が「兄さん」の頭の中に浮かんだ、「兄さん」の想像からはじまっているということなのか。

小説後半にあらわれる、廃屋のような古くて大きな屋敷、敷地内には雑木が生い茂り、一画には臙脂色の廃車が打ち捨てられている。利用されるもなく区画整理で消え去るわけでもなく、各区画に張り巡らされたままのかつての農業用水路を「ペル」の散歩をする姉が歩いていく。おそらく、そのこといっさいは、わたしの想像である。雪に隠れてはいるけど、区画ごとに昔の水路が張り巡らされていて、そこを姉と「ペル」は散歩する。

(これはこれを書いてる自分が想像したこととして)「ペル」はたぶん、姿勢を低くしてひっきりなしに地面の匂いを嗅ぎながら歩き、姉は「ペル」の首についたリードの引っ張る力を、腕に感じ続けている。その力の強さは、かつて「お爺さん」が、やはり「ペル」を散歩させていたときに感じていた力だ。

その家で、犬はぜんぶで三匹が飼われたのだが、その犬らのどれもが「ペル」だった。「お爺さん」にとって「ペル」とは、その引っ張る力のことだ。「お爺さん」が一服しようと立ち止まってタバコをポケットから取り出すと、「ペル」も歩みを止め、納得したようにこちらに向き直って、飼い主を見上げるのだ。

それはすべて姉の身体に引き継がれ、「お爺さん」をくりかえす存在として、姉は自分を意識し、想像にふける。姉が自分で想像した自分は「お爺さん」の記憶によって生まれたものでもあるが、それは姉と無関係に、かつてたしかに「お爺さん」がいた、ということの結果でもある。そのことを姉が想像する、あるいはそれらいっさいを、私が想像する。

しかし姉がたどり着くのは、その古い屋敷ではなく、かつて屋敷があったはずの、すでに何もない広い更地なのだ。かつての屋敷の前にたどり着くのは「兄」だ。とはいえ肥後守で雑木を切り進みながら、どうにか敷地内にあるコンクリート住宅の玄関の前にまで辿りつき、ドアの前に佇むまで。その家にはコッサのフレスコ画を模したステンドグラスがあり、外光を透かしていることを(私が、姉が、兄が)知っている。

「ペル」は、自分の犬小屋があった場所を知っている。何もない更地の一画を「ペル」は目指して散歩主を引っ張っていく。そこで、ペルは三匹になる。ペルの頭にはトナカイの角が生えている。それまで沈黙のうちにあった屋敷内のあらゆるものが、突然ざわめき、勝手に動き出して物音を立て始める。

わたしは兄さんを呼ぶ。押入れの暗闇の中にいるわたしの上に、薄いゴム膜のようなものがかぶさる。暗闇のなかの光の点滅が見えなくなる。梁の上で「ペル」の小さな彫像をいくつも作る兄の上にも、薄い膜が降り落ちてかぶさる。今や身体が一つに頭部が三つとなった「ペル」。それを見ている、それを想像しているわたしの「ペル」が、「兄」が、すべてが世界から消えようとする。雪が降るかのように「ペル」の彫像が、天上から降り落ちてくる。上から降ってきて、無数に積み重なるペルの彫像は、姉や弟の身体もすり抜けて、さらに降り積もる。

やがて屋敷は崩れ、倒壊する。何もない、だだっ広い更地が広がる。とつぜん、唐箕があらわれる。小さなライオンがあらわれる、やがて唐箕が消える。

今では、空き地に廃車が朽ちているところなんて、なかなかお目にかかれない景色だと思うけど、僕が子供のころには、そういう雑木林と朽ちた自動車の景色は、わりとふつうに見ることのできたものだった。巨大なお屋敷の空き家だって、珍しくも思わないくらいには、よくあったかもしれない。意外なことに、僕の現住まい近郊は、いまだにそんな雰囲気が、若干残ってもいるようにも思う。