自分の幽霊

肖像写真は、もろもろの力の対決の場である。そこでは、四つの想像物が、互いに入り乱れ、衝突し、変形し合う。カメラを向けられると、私は同時に四人の人間になる。すなわち、私は自分がそうであると思っている人間、私が人からそうであると思われたい人間、写真家が私はそうであると思っている人間、写真家がその技量を示すために利用する人間、である。言いかえれば、これは奇妙な行動であるが、私は自分自身を模倣してやまないのである。だからこそ、写真を撮らせる(または撮られる)たびに、必ずそれが本当の自分ではないという感じ、ときには騙されたという感じが心をかすめるのだ(それはちょうど、ある種の悪夢が与えるのと同じ感じである)。想像の世界においては「写真」は(私が志向する「写真」は)、非常に微妙な瞬間を表している。実際、その瞬間には、私はもはや主体でも客体でもなく、むしろ、自分が客体になりつつあることを感じている主体である。その瞬間、私は小さな死(括弧入れ)を経験し、本当に幽霊になるのだ。

(ロラン・バルト「明るい部屋」23ページ)

写真に撮られてない私だけが背景から自由なのだ。背景のなかに人物がいる、それだけでそれは「死」だ。

写真に撮られた私=背景のなかで、私であろうとする何か。その何かとは私だ。私はもはや今ここにいる私から切りはなされている。私は私の幽霊を見る。

幽霊なんて一度も見たことないけど、誰もが自分の幽霊だけは、見たことがある、何度も。

自分の幽霊は、自分しか見ることができない。

あなたは私の幽霊を、私がそうであると思っている人間、私が人からそうであると思われたい人間、写真家が私はそうであると思っている人間、写真家がその技量を示すために利用する人間、そのどれでもない何か、すなわちこの私として、あなたは見ている。