ティンブクトゥ

図書館で借りたポール・オースター「ティンブクトゥ」を半分くらいまで読んだ。なかなかもの寂しい、自分の内側に膜を張った感傷の中に、いつまでも閉じこもっていたいような気にさせる作品だ。こんな話、もし犬を飼ってる人が読んだら、せつなくて読み進められないんじゃなかろうか。

ウィリーは人間であり、ゆえに主として視覚に頼って世界に関する理解を形成する。ミスター・ボーンズは犬であり、ゆえにほとんど盲目である。目は形を区別し、物の大まかな輪郭を捉え、眼前に迫ったものが避けるべき危険なのかキスすべき仲間なのか見分けるくらいの役には立つ。が、本当の知識を得るため、現実の込み入った様相を真に把握するためには、鼻のみがその有効な手段なのだ。ミスター・ボーンズが世界について知っていること、彼がこれまで獲得した洞察、情熱、思想はすべて、嗅覚を通して得たものである。はじめのうち、ウィリーはほとんどわが目を疑った。匂いに対するミスター・ボーンズの熱意は無限に思えたし、ひとたび興味を惹かれる匂いに行きあたると、鼻をぴったりくっつけ、さも熱心に、夢中になって嗅ぎ、この世のほかいっさいが消滅する。鼻孔は吸引管となって、電気掃除機がガラスの破片を吸い込むようにクンクン嗅いで回り、時には---実際、しょっちゅう---ミスター・ボーンズが嗅ぎまくるその烈しさに舗道が割れてしまわないのが不思議なくらいだった。いつもなら誰よりも相手に合わせる性格なのに、すっかり強情になり、気もそぞろになって、主人の存在すら忘れてしまうように思える。まだ彼の気が済まぬうち、調査中の糞なり小便の水たまりなりの香りを吸収しきらぬうちに革紐を引っぱったところで、ぐっと足を踏んばって抗うばかり。あまりにもしっかりと、その場に不動の錨を下ろすものだから、ウィリーはしばしば、実は兄の先に嚢(のう)が隠されていて、必要に応じて糊を分泌しているんじゃないかと思ってしまった。
 どうしてこれに魅了されずにいられよう?犬には約二億二千万の嗅覚受容体があるが、人間には五百万しかない。これだけ差があるのだから、犬の認知する世界が人の認知する世界とはまったく違うと考える方が理にかなっているというもの。論理に強かったためしのないウィリーだが、この問題に関しては知的好奇心のみならず愛情にもつき動かされていたから、いつになく粘り強く考え抜くことになった。何かの匂いを嗅ぐとき、ミスター・ボーンズは何を経験しているのか?そして、同じくらい重要な問いとして、なぜ彼はその匂いを嗅ごうとするのか?綿密な観察の末、ミスター・ボーンズには関心のカテゴリーが基本的に三つあるという結論にウィリーは達した。すなわち、食べ物、セックス、犬仲間に関する情報。人間は朝刊を開いて、人間仲間がどんなことをやっていたか知ろうとする。犬も同じで、木々や電柱や消火栓を嗅ぐことによって、地元の犬住民たちの動向を知ろうとしているのだ。牙の鋭いロトワイラー犬レックスがあの草むらに痕跡を残していった。可愛いコッカースパニエルのモリーは目下さかりがついている。雑種のロジャーは何か体に合わないものを食べた。そのあたりまではウィリーにも理解できるし、疑念の余地はない。話がややこしくなるのは、嗅ぐ犬の気持ちを理解しようとするときだ。これは単に、己の利を図っているだけ、情報を消化吸収してほかの犬たちの一枚上を行こうとしているだけなのか?それとも、この狂おしい嗅ぎまくりには単なる軍事戦略以上のものがあるのか?そこには快楽も絡んでいるのだろうか?ゴミに顔をうずめた犬というのは、たとえば人間の男が女性の首に鼻を押しつけて一オンス九十ドルのフランス製香水の匂いを吸い込むときに感じる、めくるめく恍惚に近いものを味わっているのか?
 確かなことは知りようがなくても、たぶんそうだとウィリーは考えた。そうでもなければ、ある種の匂いが存在する場からミスター・ボーンズを引き離すのがなぜあんなに厄介なのかの説明がつかない。要するに、犬は匂いを楽しんでいるのだ。酩酊状態に浸って、鼻の楽園に埋没し、そこから立ち去ることに耐えられないのだ。そして、すでに述べたとおり、ミスター・ボーンズが魂を有しているとウィリーは信じている。だとすれば、彼は霊的なるものを志向する犬であって、より高尚なもの、肉体の欲求や要請とは直接つながらぬ精神的なもの、芸術的なものを標榜しているのである、魂の無形の渇望に導かれているのである、と考えるのが道理ではないか?そして、この問題を論じたすべての哲学者が言っているとおり、芸術とは五感を通してまさにそのような魂に達しようとする人間的営みにほかならないのならば、ここでもまた、犬たちが---少なくともミスター・ボーンズと同じ高みに達した犬たちが---同様の美的衝動を抱きうると考えるのが道理ではないか?要するに、犬たちにも芸術の値打ちがわかるのではないか?ウィリーの知る限り、いままでこんな問題を考えた人間は一人もいない。ならば自分は、そんなことが可能だと信じた、記録に残る史上初の人物ということになるだろうか?どちらでもよい。そうした考え自体の機が熟したのだ。犬が油絵や弦楽四重奏に魅了されぬからといって、彼らが嗅覚に基づく芸術に惹かれないと誰に断定できよう?嗅覚の芸術なるものがあってもいいのではないか?犬の知る世界と向き合った、犬のための芸術があってもいいのでは?

(新潮文庫 48頁~)

たったひとりの相棒ミスター・ボーンズに対して、ウィリーはこんな、思い溢れる、しかしある意味では悲しいほどに凡庸で陳腐な、自分の枠組から出ることのないままの幻想を、夢中になって頭に思い描いているようにも思われる。ただしこの小説においては、そんな飼い主の心が、犬にきちんと伝わっている。少なくとも犬は人間の言葉を理解しており、人間の思いや心の中のいたたまれない辛さまでも、共有することができる存在として描かれている。

このかなしみ---ほんとうに他人事じゃない自分自身の愚劣な悲哀であるかのように--グラグラと頭の中を揺さぶられる。

しかし物語の後半には、また新たな展開がはじまりつつある。このことがある種の救いのようにも感じられる。二人だけだった世界から、一人が消えた。残された一人の前に開かれていく世界が、これからはじまるのだ。もう老いぼれの、人生の終幕が近い、今にも死にそうな老体にも、まるで屈託も容赦もなく、新鮮で過酷な新しい朝が、やってくるのだ。