パウリーナの思い出に

アドルフォ・ビオイ=カサーレス「パウリーナの思い出に」を読む。この小説の登場人物たちも、それぞれ孤独だ。主人公はきっとこの後も、自分の生涯のことあるごとにパウリーナという女性を思い出して、パウリーナが自分の考えとは違う相手だったこと、パウリーナがすでにこの世にいないこと、はじめからパウリーナの心の中に自分がいなかったこと、それらが渦巻いて、心を苛まれるのだろうが、そのどこにも「客観的」なパウリーナはいないし「本当の」パウリーナもいない。主人公もその恋敵モンテーロもそれぞれ、自分が見ていないパウリーナの側面を想像して、ひたすら"私の"パウリーナの思い出に、心を苛まれ、あるいは嫉妬の炎を燃やし続ける。

ただし「パウリーナの思い出に」の、単なる失恋と誤解の物語とみなして済ますことのできないある種の不気味さは、それは本来ならば絶対にうかがい知ることのできない「他人の頭の中」が、あたかも今この現実であるかのように目のまえに立ち現れるその瞬間が描かれているところにある。それはたいへん恐ろしい経験のはずだが、同時に「孤独な存在であるはずの私の殻が破れた」経験でもあり、人間が望みうる一番の幸福それ自体が拡張するかもしれない、それは恐怖であると同時に、ある種の期待と裏腹なものでもあるだろう。

(そんな世界に突然放り込まれてわけもわからず二日も三日も彷徨うのが、P.K.ディック「流れよわが涙、と警官は言った」であって、そんなことは起こりえない(つまり現実的な)世界で、登場人物が(犬だろうが人だろうが)自分の想像のなかに生きている相手と対話しながら、その生涯を孤独さもろとも丸抱えしつつ全うしようと試みるのが、オースター「ティンブクトゥ」ということになるだろうか。)

それにしてもパウリーナと再会した主人公が、あとからその根源的な意味に気付く箇所の面白さ。鏡に写った、竿立ちする馬の置物、背景を動く自分自身らしき人影、そして雨の音、それら一つ一つが、その日の経験がそのまま、モンテーロが二年前に見たものの印象をもとに組み立てた幻想であることの根拠になっていくのだが、とはいえ、いや…だからと言ってそんな…と、思わず唖然とさせられる感じはある。上手いこと辻褄があって「あーなるほど」などとは、とても思えない。この根源的な不条理感というか、伏線とか辻褄を調整するようなことではない、話を一挙に運ぶ際の勢いのある荒々しい感じが、本作の面白さの核にあると思う。「失恋」がモチーフなので、余計にそう思われる。

三角関係でライバルの立場にある二人の男。女がどちらの男を愛しているのかはわからない、トランプでの勝負と同じく、相手の手札は見えない。互いの思惑を手探りして、しかしそのとき、まったくありえないことだけど、まるで自分に配られたカードであるかのように、相手の持ち札が見えてしまったらどうか。ふつうなら「これで勝てる」と思うところだが、そうはならなかった。見えてしまったから正確に把握できたのではなく、かえって誤解した。勝負には負けていた。そのことに気付いて深く傷つくことになった。

そのことで私の誤解と相手の誤解が一挙に見えてしまって、私は自分の望みをすでに相手が得ていたことを知り、同時に相手はそれをすでに得ているのを知らぬまま、既にないものを追い求めて、私に対して幻想を見ている。私が見たのは、相手が私に対して見た幻想そのものだった。

見えてしまった、それを見た者が優位なのか、見られてしまった、見せてしまった者が優位なのか、ここでは判断がつかない。何にせよ、このような事態を誰も望んでいなかったが、事態は果たしてそうなった。とてもややこしくて面白くて、やはりみんな孤独だ。