志賀直哉論

蓮實重彦「『私小説』を読む」所収の志賀直哉論「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」が発表されたのは1976年とのことで、今読んでも、とにかく鮮やかというか、おもわず呆気にとられるような見事な「読み」の成果が展開されていて、すごい…と唸るしかない文章だけど、同時に「しかし、ちょっと無理やりな、なんとなく反則気味な匂いがするというか、はじめからそういう読み方をしようとしたから、そう読めたのではないか?」といった疑いの心も、かすかに動くところはある。読めば納得するしかないほどの精度で書かれているのに、どうも腑に落ちないというか、もやもや感を否めない感じ。おそらくこの相反する思いを、当時はじめて蓮實重彦的な仕事に触れたなかにも、感じた人はいたのではないか、と想像する。このような、構造的なテクスト分析にはじめて触れたとき、ある種の恣意性、結論ありき性みたいなものを感じてしまう部分は、あったのではないかと。

しかし今これを読んで、その手触りが、その後の小津安二郎成瀬巳喜男の作品分析から受ける印象と見事なまでに同質なものであり、かつこのような、反復性とそこからの離脱だとか、あるいは上下運動とか役割の入れ替わりとか、そのような(深淵ではなく表層の)言葉そのものが自律して、それぞれの役割を担い、勝手にしかるべき位置を目指しているかのような状態を、なるべく繊細にとらえる力をもつ者こそが作家であって、その運動性を緻密に感じ取ることのできる者こそが読者なのだという話は、今や完全に「読み」のスタンダードな考え方に定着されたのだなとも(少なくとも自分は)思う。というか、まずそれを読み取れないことには、散文という形式がもつ独自の力を、すくい取れないということになってしまうだろうから。

さらに小林秀雄「作家の顔」所収の「志賀直哉論」(1938年)も読むが、同じ「暗夜行路」を巡る二つの文章の、何という違いかと思う。こちらはいかにも、小林秀雄的な修辞がちりばめられた、じりじりと志賀作品に肉薄しようとするかのような熱い文章だが、ここにとらえられているものもいまだに重要というか、これを踏まえずに蓮實重彦的な「手法」だけを読みの方法と考えてしまうのは間違いだろうとも思う、が、あらためてもう少し、丁寧に読んでみたい。