雨瀟瀟

永井荷風「雨瀟瀟」(1921年)を読む。

その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。唯その頃までわたしは数年の間さしては心にも留めず成りゆきのまま送って来た孤独の境涯が、つまる処わたしの一生の結末であろう。これから先わたしの身にはもうさして面白いこともない代りまたさして悲しい事も起るまい。秋の日のどんよりと曇って風もなく雨にもならず暮れて行くようにわたしの一生は終って行くのであろうというような事をいわれもなく感じたまでの事である。わたしはもうこの先二度と妻を持ち妾を蓄え奴婢を使い家畜を飼い庭には花窓には小鳥縁先には金魚を飼いなぞした装飾に富んだ生活を繰返す事は出来ないであろう。時代は変った。禁酒禁煙の運動に良家の児女までが狂奔するような時代にあって毎朝煙草盆の灰吹の清きを欲し煎茶の渋味と酒の燗の程ほどよきを思うが如きは愚の至りであろう。

やけに塞ぎこんだ調子だけれども、それにしても何と「今風」な言葉であることか。一部のやる気に満ち溢れた人々をのぞけば、今も昔も、誰もがみんな、同じようにげんなりしながら、あきらめの吐息をついている。

人気のない家の内は古寺の如く障子襖や壁畳から湧く湿気が一際ひときわ鋭く鼻を撲つ。隙漏る風に手燭の火の揺れる時怪物のようなわが影は蚰蜒の匐う畳の上から壁虎のへばり付いた壁の上に蠢いている。わたしは寝衣の袖に手燭の火をかばいながら廊下のすみずみ座敷々々の押入まで残る隈なく見廻ったが雨の漏る様子はなかった。枕に聞いたそれらしい響は雨だれの樋いから溢れ落ちるのであったのかも知れぬ。

身体も心も蝕む雨。かつての自分は「好んで寂寥を追い悲愁を求めんとする傾きさえあった」けれども、今はちがう。

その年二百二十日の夕から降出した雨は残りなく萩の花を洗流しその枝を地に伏せたが高く延びた紫苑をも頭の重い鶏頭をも倒しはしなかった。その代り二日二晩しとしとと降りつづけた揚句三日目になってもなお晴れやらぬ空の暗さは夕顔と月見草の花のおずおず昼の中から咲きかけたほどであった。物の湿ることは雨の降る最中よりもかえって甚しく机の上はいつも物書く時手をつくあたりのとりわけ湿って露を吹き筆の軸も煙管の羅宇もべたべた粘り障子の紙はたるんで隙漏る風に剥れはせぬかと思われた。彼岸前に袷羽織を取出すほどの身は明日も明後日ももしこのような湿っぽい日がつづいたならきっと医者を呼ばなければなるまい。病骨は真に雨を験するの方となる。

雨は、音として聴こえてくる。雨音ではなく、雨戸を閉める音、襖を開ける音。それらと共に。

封筒に切手を張っている時折好く女中が膳を取片づけに襖を開けた。食事をしたせいか燈火のついたせいかあるいは雨戸を閉めたせいでもあるか書斎の薄寒さはかえって昼間よりも凌ぎやすくなったような気がした。しかし雨はまたしても降出したらしい。点滴の音は聞えぬが足駄をはいて女中が郵便を出しにと耳門の戸をあける音と共に重そうな番傘をひらく音が鳴きしきる虫の声の中に物淋しく耳についた。点滴の音もせぬ雨といえば霧のような糠雨である。秋の夜の糠雨といえば物の湿ける事入梅にもまさるが常とてわたしは画帖や書物の虫を防ぐため煙草盆の火を掻き立てて蒼朮を焚たき押入から桐の長箱を取出して三味線をしまった。そのついでに友人の来書一切を蔵めた柳行李を取出しその中から彩牋堂主人の書柬を択み分けて見た。雨の夜のひとり棲みこんな事でもするより外に用はない。