古雅

永井荷風「雨瀟瀟」(1921年)のヨウさんは会社経営していて、欧州戦争(第一次大戦)による好景気のおかげでお金には困らないのだが、「何ぼ何でもこの年になって色気で芸者は買えません。芸でも仕込んで楽しむより仕様がない。」とか言って、かねてから目を付けていた芸者を買い、稽古をつけて三味線の古曲(薗八)を教え江戸の伝統文化を保護したいと思うがどう思うかと主人公に相談する。賛同されたヨウさんはついに芸者お半の身をあずかるが、しかし結局そのお半が、まるで稽古に熱心でないこと、では何がやりたいのか聞いても、何のこたえもないこと、挙句の果てには活弁士と関係をもち相手に夢中になってしまったことなどから、もはや望み無しとしてヨウさんはお半に暇を出す。

今の若い女は良家の女も芸者も皆同じ気風だ。会社で使っている女事務員なぞを見ても口先では色々生意気な事をいうが辛い処を辛抱して勉強しようという気は更にない。今の若い芸者に薗八なんぞ修業させようとしたのは僕の方が考えれば間違っていたともいえる。家の娘は今高等女学校に通わしてあるがそれを見ても分る話で今日の若い女には活字の外は何も読めない。草書も変体仮名も読めない。新聞の小説はよめるが仮名の草双紙は読めない。薗八節稽古本の板木は文久年間に彫ったものだ。お半は明治も三十年になってから後に生れた女だ。稽古本の書体がわからないのはその人の罪ではない。町に育った今の女は井戸を知らない。刎釣瓶の竿に残月のかかった趣なぞは知ろうはずもない。そういう女が口先で「重井筒の上越した粋な意見」と唄った処で何の面白味もない訳だ。「盛りがにくい迎駕籠」といったところで何の事だかわかりはしない。分らない事に興味の起ろうはずはない。『五元集』の古板は其角自身の板下だからいくら高くてもかまわない買いたいと思うのはわれわれの如き旧派の俳人の古い証拠で、新傾向の俳人には六号活字しか読めないのだから木板の本はいらない訳だ。今の芸者が三味線をひくのは唯昔からの習慣と見ればよい。丁度新傾向の俳人がその吟咏にまだ俳句という名称を棄てずにいるのと同じようなものだ。僕はもう事の是非を論じている時ではない。それよりかわれわれは果していつまでわれわれ時代の古雅の趣味を持続して行く事ができるか、そんな事でも考えたがよい。僕の会社でもいよいよ昨夜から同盟罷工が始った。もう夕刊に出る時分だが今日はそんな騒で会社は休みも同然になったのでもっけの幸と師匠を呼んで二、三段さらったわけさ。

ちなみに同盟罷工とはストライキのことらしい。

「いや君実に馬鹿々々しい話さ。活弁に血道を上げるとは実にお話にならない。あれは全く僕の眼鏡ちがいだった。活弁の一件がないにしてもあの女は行末望みがないようだ。」といった言い方から察するに、当時の職業「活弁」は、今でいうところのDJとか、ユーチューバーとか、そういうイマドキな若くてチャラい連中のイメージだったのだろうか。少なくとも「古雅派」にとっては、耐えがたく鼻持ちならぬような連中、ということだろうか…。