上野の戦争

永い慣例となっていた秋の帝展が、今度だけ春に開く。それも二月の末、温かい梅花薫る季節なのだが、例ならぬ寒さに加えて、東京が北国に変わったような稀有な大雪。節分の夜と、二十三日と、また更に二十六日の暁に、深々と積もった雪は、豊年の貢と昔から瑞兆のようにいわれたのとは似もつかず、万延元年、大老井伊直弼が水戸の浪士に襲われた、桜田の凶変の上巳の節句の雪を思わせずにはいなかった。

上に引用した鏑木清方『随筆集 明治の東京』<上野の戦争>の冒頭を読んで、鏑木清方の生年をたしかめてみると1878年である。桜田門外の変1860年だから、「桜田の凶変の上巳の節句の雪」とは、自分自身の記憶ではなくて、自分の幼少の時代のさらに昔の出来事を、今降ってる雪によって思い起こしているということだ。

2.26事件に触発されてこの随筆が書かれたのだろう1936年、鏑木清方は58歳である。この短い随筆を読むと、清方本人にとっての、さらには彼の世代にとっての、戦争というものの感覚とか距離感のようなものが、よくわかる気がする。彼自身は、桜田の凶変も上野戦争も直接は知らず、もちろん直接自分の耳で「砲声」を聞いたことは無いのだが、おそらく上の世代から聞いたのであろうそれらの話が、このたびの事変によってはっきりと、まるで自分自身の記憶であるかのように浮かび上がってくる、その気分というか、その胸の内が、とてもよくわかるよな気がする。かつて死の覚悟を決めたこともある、そんな人物が自分の幼少時にはまだ存命で、幼い自分の目には品の良いお婆さんにしか見えない、そういう記憶をもつ者。時代は違っても、清方も我々もだいたい同じような時代の空気を感受して生きているのではないか、そんな推測も可能ではないか。

外国との戦争は明治以後何度もあったのだけれど、内地の、しかも大都会で砲声を聞くようなことは空前絶後のことと、ついきのうまでは、上野の戦争についてそう考えていた。
 それがあの二月二十六日、喪服のような白い雪を見た日から四日の間に、東京の人は危く再び市街に砲の音を聞くかも知れぬ、恐ろしい機会に直面させられたが、私は幼少の頃家人の話に聞かされた、上野の戦争の時の江戸の街の人たちと、時を隔てて同じような場合に遭遇したものだと思った。
 私の家はその時分は浅草の代地に住んでいたのであるが、五月の十四日の朝、いよいよ上野の山へ、数日前から湯島の岡に砲を据えた官軍が大砲を打ち込むというので、あの辺は酒井家の隊士が警固をしていたのだそうで、山に籠った彰義隊は人数も知れているし、どう防いだところで戦いには勝てないことは解っているので、戦争がそう永びくこともなく、江戸中が焼き払われるような騒ぎになろうとは思わなかったであろうから、割に落ちついていられたかもしれないが、上野居まわりものの他は、滅多に家をあけて逃げ出す人もなく、ただ雨戸は閉せとある命令で、戸の透き間から往来を見ていたそうである。その内夕方になって、もう戦争は済んだが、山を脱走した残党が、夜になると市中へ逃げ込んだというので、錦裂れを付けた官軍が探しに来る。中には縁故からかくまったということもあって、あの時の方が戦争の最中より、よっぽど怖かったということである。
 私どもの親戚にあたる本阿弥忠敬というのが、やはり隊に加わって、手疵を負って自分の邸に落ちて来たのを、その母親が押入れに隠して、調べに来た官軍に応対し、まかり間違ったら息子と共に自殺する覚悟でいたという。その母親というのは、私の家から出た人だそうで、色の白い品のいいおばあさんであったが、よくその人にあうと、この伯母がそんなに強い人なのかしらと、芝居の人を生で見るような気がした。