マルコムX

DVDでスパイク・リーマルコムX」(1992年)を観た。これも、大昔に観て以来だ。しかし三時間ニ十分は長い。しかもそれほどの時間を必要とする映画に思えない、音楽の使い方もイマイチ冴えないし、特筆すべきところの見当たらない平板な評伝ドラマという感じ。そしてマルコムXという人物の登場から暗殺までの「物語」も、これはこれで悲しくなるくらい「どこかで聞いたような、よくある話」なのだった。このウンザリ感は、この映画に対してと言うよりも、誰もがよく知るこの世界の、今も昔もえんえん変わらない暴力の歴史に対して今更ながら感じるところから来るものだろう。

マルコムXの主張とは、状況の改善や融和や調整を図ろうとするためのものというよりも、まず「個」のアイデンティティを回復せよ、この私の本来性を捉え直せ、と訴えるところにあっただろう。というか、それはおそらくマーティン・ルーサー・キングも同じだっただろう。かれら黒人指導者は、政治家でもないし宗教家でも実業家でもない。マルコムXは宗教家的な側面ももつかもしれないが、そのものではないだろう。指導者とはつまり社会的存在としての個の精神にある定義付けを与えてくれ、各々の内面に矜持を形付けてくれる存在で、我々のアイデンティティを打ち崩そうとする不当な力を拒むための意識をつねに覚醒させてくれる存在でもある。彼らは個々にとっての精神的な支柱であり、政治家のように実効的な働きを担う(とされる)者ではない。(もちろん時が来れば指導者も政治活動へシフトしていくのだろうが、最初はそうじゃない。)しかし指導者が暗殺されるというのは、結果的にその指導者が実効的な権限を持ち勢力を拡大するのを阻止したいとの誰かの思惑に基づいているだろう。つまり指導者が暗殺される理由は、その指導者の思想信条とか主張にあるのではなくて、おおむね金や利権にあるのだろう。

このようなことの反復には、今更ながら芯から疲弊させられる思いがする。空しさが頭の中を占め、ものすごく凡庸きわまりない、高校生みたいにいじけたニヒリスト気分に、しばし浸ることになる。