神は来ない

4月17日に配信された保坂和志「小説的思考塾 vol.7」の配信アーカイブを視聴していて、その話のなかで「もう神は来ない。しかし人は神を待っている、それが近代後期ではないか。」という言葉が出てきたけど、たしかにもはや神は来ない、それは誰もがわかっているというか、それ前提で生きているのが二十世紀も後半であるというのは、自分や他人に等しく登録済みの設定だと言われたら納得できるような感覚としてわかることのできる気がするのだが、しかし今「祈り」の立場はどこにあるのか、この状況においてどのように「祈り」が可能か、というのは、常々考えたくなるというほどのことは無いにしても、時勢や世間が混乱し不安定さを露にし出すと、ついなんとなく、そういうことが気に掛かってくるところはある。それもまた馬鹿の一つ覚えではないか、同じ気分の繰り返しだろうと自嘲したくもなるのだが、結局なにか、あやかりたい言葉のありそうな、大きな道筋のヒントを指し示してくれそうな、いや実際、そんな本はありえないことなどよくわかっているにしても、少なくともその感覚を知っている本の近くに寄り添い、それにすがりたくなる気持ちは否定できないので、それで二か月ほど前から大江健三郎を読んでいる。最初は「「救い主」が殴られるまで」収録の「燃え上がる緑の木」に取り掛かろうと思っていた。前から知っていたそのタイトルから、今こそ呼ばれたような気がしたのだが、冷静に考えるとそれ以前に、僕はまだ「懐かしい年への手紙」を読んでいないのだ。さすがにこちらが先だろうということで、今もそれを読んでいるのですが、この冬から春にかけて、途中でしばしば、ほかの本に寄り道もしていたので進捗は遅い。ようやく三章も半ばを過ぎて、読んでいる感覚にドライブが掛かってきた感じがあって、このまま最後まで行ってしまいそうな予感がする。ちなみに読んでしまえば、あやかりたいなどと想像していた言葉も、得たかった感触もすっかり忘れて、実際に現れるイメージとはまるで関係なくなってしまう。