冬物語

録画してあった、エリック・ロメール冬物語」(1992年)を観た。

どこかホン・サンスを思い出させる、というかそれは逆で、ホン・サンスをはじめて観たとたときに、どこがとは言えないけどなんとなくロメールっぽい、と思ったのかもしれない。

いくつかの出来事がまるでそこに配置されているかのようして在ってそれらが連動していく。とはいっても出来事が連鎖するわけではない。単に出来事が進みゆくというだけ。主人公の女性は自分の考えで相手と手を切ったり、別の相手との生活を試みたり、また元のさやに納まろうとしたりするのだが、それも含めて、まるでボールが障壁にぶつかりながら一定の速度で傾斜を転がっていくのを見ているみたいな感じで、映画を観る我々は彼女をただ見送るだけだ。

後半のシェイクスピア冬物語」演劇を鑑賞する場面で、それを観て図らずも感動している彼女の姿を見ることになるが、そこで彼女は「冬物語」の何に涙を流したのか、そのことは説明されているようでもあり、そうでなくもある。ただとにかく演劇を観て涙を流した。それがそれまでの彼女と今後の彼女に、何がしかの働きかけをなしたのか、あるいはそれはあくまでもその時だけの涙であって、彼女のそれ以降の時間は、そのことに規定されることが無いのか、それは我々の現実がそうであるように、本作の主人公をはじめとする登場人物たちにとっても不明だ。やがて主人公にまた新たなる出会い(再会)が生じて、ふたたびボールがまた別方向へと傾斜を転がっていくのを、映画を観る我々はただ見ている。

ただ見ているしかないという感じ、それは観る者と対象との間に設けられた距離感がそう思わせる。その距離感を仕掛けたのは映画の作り手だ。絵が線や色によって線や色ではない何かをイメージさせるように、映画は撮影したフィルムをつなぎ合わせることによって、それだけではないイメージを生み出そうとする。