人並み

老人に近づくというのは、じつは子供が小学校に上がるのと変わらなくて、どちらもある決まったしきたりに従うしかない、そのことへの所感を胸におぼえるということだ。だから「年を取るのは嫌だね」などと口にする自分を含めた多くの人は、なんだかんだ言って、そうなりつつある自分、新しい領域へエスカレーションするそんな自分に対して、かすかな興奮を感じている。

ああ、やっぱり私も世間並みで人並みだった、そんな類の喜びというものがある。たとえば会社で、若い女性が報告しにやって来る。「じつは私、婚約しまして、来年あたりに籍を入れる予定でして‥。」その、少し困惑したような、いや私も、人並みにそういう話になりまして…の、照れ隠しな自嘲感を口元にあらわしてる。婚約して結婚して新生活をはじめること、それは未知への喜びでもあるけど、じつは同等くらいに人並みに準拠すること、私が私の自由を失い、役割に仕えることへの喜びでもある。だからその女性もそこではやはり「年を取るのは嫌ですよねえ」を言ってる人と変わらないムードを醸し出す。

それはそれで勿論、社会のなかである種の人に与えられた喜びではあり、自分自身もそれを感じ喜ぶところがあるのだが、しかしその慣例に、自分自身が慣れてしまって、無自覚になってしまってはダメだなと最近感じている。もっともらしく言葉で腑に落とした気になることが多くなった気がする。わけのわからなさ、未解決のまま放置した素材を説明もなくちりばめておくようないい加減さ、そういうのを避ける気持ちが、強くなったのではないかと思う。社会生活において自分が他人へ説明する必要はあっても、自分が自分自身に説明を尽くしてしまうことが、必ずしも良いとはかぎらない。なんか、気付いたら部屋の中がすっきりしちゃったような、以前はなんかもうちょっと乱雑で、色々な濃度や諧調の雑多な要素がそれなりに目に入ってきたはずなのだと、それを、そういうものだと思ってしまって良いのか。

別に、無自覚に「嫌だねえ、年は取りたくないねえ」とか繰り返していてもかまわないのだけど、妙にこざっぱりして、色々と物事が面白くないけどそれも当然だ、などと思い込むのが不味いのだ。

(タモリが言っていたけど、50代で「もう年だ」などと言ってる人を見ると、70代の人は「フっ…こいつ青いな(笑)」と思うらしい。)