懐かしい昔

だいたい三十年前だとか、五十年前だとか、過去の時間を想像するときのボリューム感は、自分が生きてきた時間の長さを基準にしたくなる。だから今の自分が、今から七十年前を想像するのは難しい。と書いたけど、五十年前なら自分が生まれた時代だから想像できる…というのも変な話だ。それも、想像できると思い込んでるだけだ。とはいえ自分が一九七十年代を記憶しているとは、かろうじて言えるはずだ。小学校に入学してからしばらくの間、それはたしかに七十年代だったのだから。

たとえば大江健三郎なら、あの頃はまだ戦時中だったと思い起こすことはできるだろう。「懐かしい年への手紙」は小説だが、この作品が、作家自身が記憶する過去無しでは成立しないこともまた確かだ。

僕にとっての七十年前、それは一九五二年で、大江健三郎であればデビュー前の大学生のときだ。「懐かしい年への手紙」のKちゃんは作家デビューして、秋山さんの妹のオユウサンと結婚することになった。これが一九六〇年。いまから六十二年前だ。

しかしKちゃんよ…。Kちゃんとギー兄さんの過去は、あなたがたの記憶はまるで、いくつもの書物のパッチワークのようになっているのだな。それぞれの書物は、彼らがそれを読んでいる時よりもさらに過去にさかのぼって存在した。彼らの読書体験はそのとき一回限りの初体験の積み重ねで、彼らの身に起こるすべての実体験は、まるで彼らの読書体験に亀裂をいれ、分断して、またそこからあらたな意味を呼び起こすかのような、読書と生のどちらの体験に人間が付き従っているのか不分明になってしまう。「懐かしい年への手紙」がそのようにして書かれることで、それが整然とした人間の過去の記憶であるのをやめてしまうほどに感じられもする。