再現と反復

大江健三郎「懐かしい年への手紙」は1987年に刊行されている。当然ながら「個人的な体験」も「万延元年のフットボール」もすでに刊行されたあと書かれた作品で、これまでそのような小説を書いてきた作家であるKが主人公の小説だ。

しかし「個人的な体験」の終盤の展開について、三島由紀夫が「---映画はハッピー・エンドでなくてはならない、というプロデューサーに屈したような」と批判した件にちなんで、ギ―兄さんがK宛に、作品の該当するいくつかの箇所に取り消し線を入れたコピーを送付してくる場面には、さすがにおどろいた。そう来たか…と思った。このような「自作の引用」がありうる、という事実がまず面白く、それだけでなく、そもそもこれは引用と言えるのか、私小説というものを内側から自壊させる唯一にして最も効果的な方法がこれなのではないか…と、さまざまな想像を膨らませてくれるきわめて刺激的な箇所だ。

ギ―兄さんが獄中からKに送り続けた、村に関する歴史資料をもとにKは「万延元年のフットボール」を書き上げ、岩場で頭部に致命的な怪我をする女と強姦容疑を背負ったまま自殺を試みる男の出来事が、その作品内にモチーフとして使われることになると知らされるわけだが、「事件」でのギー兄さんと繁さんによって、その場面がまるで過去の再来のごとく「再現」されるとき、この小説を読む者にとっての「最初の出来事」と「その反復」が、とつぜん見分けのつきがたく混然となったものとしてあらわれてくる。そんな途方もない「フィクション」を、よくも平然とうそぶけるものだな…と呆れながらも、その不思議な宙づり感は、それなりに自らの危機感として感受するべき事態だとも思う。

そのギー兄さんが「万延元年のフットボール」での、もちろん隠遁者ギーでもあり、蜜三郎の友人のようでもあり、鷹四でもあり、というかギー兄さんは完全に「万延元年のフットボール」の登場人物たちの行動をくりかえすことになって…。いや、だからそれは逆で、ギー兄さんという存在こそが「万延元年のフットボール」という世界を構築するためのキーパーソン(起源)だったということが、次第に判明する。しかし、いやそんなことは無い、そんなはずがなくて「懐かしい年への手紙」もまた、フィクションのはずだと本書を読む者は思う。そう思いたくなるほど、この話のまことしやかさに引き込まれていて、それに反駁したくなる。このような「ありえない私小説」こそが、大江健三郎の発明した「想像力で書く」小説ということか、と……。