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安保闘争って、とんでもない出来事だったのだろうな…と、あらためて思う。不特定多数の人々が多数集まって、演説を聴き、行進して、デモに参加する。今ではとても信じられないようなムーブメントで、その当時の個々人の感覚は、もはや想像するのも難しいというところだろう。

デモとは何だったのか?との疑問に、その原因や目的や成果を因果的にあてはめても納得できるものではなくて、その場においてデモを生みだしえた、人でも物でもない過剰な力の方が気になる。成果が出た出ないの問題ではなく意味のあるなしでもなく、あの得体のしれない過剰なエネルギーを、日常の景色として見ることが出来たということ、たとえば大正時代に日比谷公園あたりに集まっていた群衆らの発する力も、それと同じようなものではあったのかもしれないし、大江健三郎がテーマに響かせるかつての民衆一揆も、それらと響きあう力ではあったのかもしれない。

それにしても、その時いったいどのような力の拡大と移動がなされたのか、ばらばらに分散していたものがどのように固まって、紐帯がつくられて、組織化したのか、このエネルギーの物量と動きのイメージを想像できないことが、自分がもはや60年代以前を想像するためのフレームを持ってないということの証明かもしれない。おそらく「デモや一揆を起こす力」の減衰と入れ替わるようにして、サブカルチャーや差異の戯れとかにリアリティが生じ始めた。1970年前後にある断層というのは相当深いものなのだろうなと、今さらながら感じる…。(もしかして全日本人は1970年に風邪をひいて、今でもまだひいているのでは…とか。)