谷間

大江健三郎作品の「谷間」は、隠れ里だった時代からの古い歴史があり、そのいわば土層には、閉じ重ねられた「言い伝え」が埋まっているとも言えるだろう。大江健三郎にとっての「谷間」はまるでスクリーンのようにして、今ここで起きている事件と、かつて起きた事件を同時に映し出す。時系列を無視したかつての時と今この時が同時に出来し、悲劇的事件、失敗した革命を牽引した指導者の面影を描きだすための下地の役割をも担っている。

そこには、たとえば東京と地方みたいな対比構図は無く、少なくとも登場人物らが東京に憧れるような側面は、ほぼ感じられない。それは「東京と地方」みたいな対比が、きわめて日本的な対比だからか。もちろんどの国にも都市と田舎との関係はあるだろうけど、スケール的に国内向けの問題でしかない要素は、小説の要素から排除されている感じがある。だから大江健三郎作品には、仮にどの国の話だとしてもあまり違和感のない無国籍性がある。

大江健三郎の小説の主人公は、作家であるから東京に拠点を構えているけど、「谷間」の村で作家活動をする可能性、さらに作家ではない人間として、たとえば一生読書と勉強を続けるような人生を「谷間」の村で過ごす、そんな可能性を常に想像しているところがある。大学生であれよあれよという間にデビューしてしまい、ほとんど自らの意志に関係なくそのまま作家になってしまった彼が「この場所から都会へ脱出したい」などと考える余地ははじめからなかったし、それどころか彼は大学を卒業したら「谷間」の村へ戻ることを考えていたし、「谷間」を発展させながらギー兄さんと一緒にさまざまな本を読み続けて暮らすことを、幸福な人生の予想図として想像してももいたようなのだ。そこに想像されていた「谷間」は将来、経済的にも文化的にも発展する可能性を秘めた「美しい村」であり「根拠地」だった。

「懐かしい年への手紙」のギー兄さんは、まるで主人公のKが「村で生活をする自分」を想像するときにだけあらわれる、もう一人の自分の分身、言葉通りの意味で実在している人物ではなく、主人公Kの内面にいるもう一人の存在のようでもあり、Kの無意識下にひそむもう一つの欲望をさまざまに表現する仮定的な存在という感じも、しなくもないと思う。ときにはKの作品に対する辛辣な批判者でもあるギー兄さんだが、その批判は常に他者のものではない自己批判のような色合いを帯びる感じがするのもその理由だが、何よりこの小説とは結局、東京に行かずに、故郷の「谷間」でずっと暮らし続けるはずだったKと、東京で作家生活に明け暮れているKの二重の進み行きが、二人のキャラクターに姿を分けられて交互に展開されているのではないかとの想像を誘うように作られているようにも思われるからだ。