家・母・映画

淀川長治「文藝別冊」収録の蓮實重彦金井美恵子対談を読むと、淀川長治は、安保闘争なんて一切興味なかっただろうと思う。そもそもヌーヴェルヴァーグに興味がなかったならば、1968年の5月のカンヌのことだって、まるでどうでも良いと思っていただろう。

淀川長治は生年1909年、父親又七が四十代後半のとき、本妻の姪でまだ十代だったりゅうに生ませた子供である。病身で子供の埋めない本妻のかわりに、りゅうが毎夜又七の相手をつとめた。生まれたばかりの長治を本妻は嬉しそうに抱きかかえて、その三日後に亡くなったという。幼少の長治から見て、老人のような又七とりゅうの夫婦としての組み合わせは異様に思えた。寝室にきれいに揃えられた二人の布団が並んでいるのを見て、家の犠牲となった母親りゅうが哀れでかわいそうで、その痛ましさに耐えがたいものを感じた。

長治は父親を憎み、家系存続といった考えの旧来性を憎んだ。「私は子供はいらないの、淀川家は潰してしまわないと…」と言って、生涯独身をとおした。

家業は置屋であったから、芸者の女たちは子供の頃から近しい関係にあった。汚い寝顔の女たちが、もろ肌脱いでおしろいを塗り付けて、やがて見事に綺麗な芸者になっていくのを見ていた。その綺麗さの違いも、一流と言われる芸者とそうでない芸者の使う香水も、使う石鹸も鏡台も、つまり女とは力だ、力次第だとはっきりとわかった。わいせつな言葉を教えられからかわれ、お菓子やみかんをもらった。「女」について、その生態と習性について知り尽くした。むしろ若い男たちの姿が異世界の住人のように眩くて、惧れとあこがれの混ざり合ったような眼差しで、いつも彼らを遠巻きに眺めていた。

淀川長治は、小津安二郎にも成瀬己喜男にも、ほとんど関心をもたなかった。50年代アメリカ映画への愛もさほどではなかった、…とのこと。

後年の淀川長治は、ゴダールロッセリーニ、どちらも「映画を崩した人」とみなしていた。それは、それらの作家を半端に称揚する人間よりもよほど正確に、彼がヌーヴェルヴァーグやネオレアリズモの本質を掴んでいることを示すと蓮實重彦は言う。フォード、シュトロハイム、溝口。この三点を踏まえてすべての映画を観た。それが淀川長治だった、と。

旧来的制度がはらむ暴力性を憎んだ。そうでありながら、旧来を無闇に打ち壊そうとする得体の知れぬ新しさに関心を向けることもなかった。

淀川家は戦中から戦後にかけて没落し、淀川長治は両親ともども東京で暮らした。やがて父は死に、最愛の母親と二人きりの生活が二十六年間続いた。それは長治の生涯でもっとも幸福な時期だった。