アマデウス

DVDでミロス・フォアマンアマデウス」(1984年)を何十年かぶりに観た。むかしは「すごく面白い」と思った気がするのだけど、さすがにそれほどではなかった…という感じ。燃えさかる嫉妬心と自尊心崩壊に責められながらも、天才の力に魅せられ圧倒される「凡庸な人」を、まるで水を得た魚のように、ほとんど楽し気に見えるほど活き活きと、F・マーリー・エイブラハムが演じている。その様子を三時間もの間、ひたすら見る。

サリエリモーツァルトが書いた楽譜を読んで陶酔し恍惚となる。これはまぎれもない傑作、天才の業であると見抜く。そしてなぜこの力を授かったのが自分ではなくあの男だったのか、そしてなぜ自分にはそれが天才の業であることを見抜く力のみ与えられたのかを嘆き神に訴える。サリエリモーツァルトに嫉妬する。しかしサリエリは何を求めていたのか。彼は幼少から今に至るまで音楽の力によって神へ奉仕しようと考えている。サリエリは常々神に話しかけ、我が身を嘆き、最後は、神に背く決意をかためる。もし天才の力を自分が授かったなら、サリエリは神の寵愛を受けることができたはずだ。にもかかわらず神はモーツァルトを選んだ。サリエリの嘆きと怒りの元は、神のアンフェアさにある。サリエリは決してモーツァルトのようになりたいとは思っていない、しかしモーツァルトが「持っている」(らしい)「美」を作り出す能力に強く執着する。その「美」自体の魅惑を感じ取ってもいる。

「天才と凡庸」は以下のように分類可能で---1.「美」を作り出すことができる/2.「美」を作り出せないが、感じ取ることはできる/3.「美」を作り出すことも、感じ取ることもできない---、モーツァルトは1、サリエリは2、皇帝は3に該当するのだが、しかしそれは実のところどうでも良くて、この映画は「天才と凡庸」の問題をテーマにしているようでいて、じつはそうではないだろう(ごく浅い解釈として利用してるに過ぎないだろう)。というか「天才と凡庸」の問題が、恋愛問題にすりかわっているのだ。サリエリに対して自分がイマイチ腑に落ちなかったのはそれが理由だろうと思う。天才は嫉妬されて苦しむ、半凡庸は凡庸さ自体に苦しむ、真凡庸は何も考えてない・・・のではなくて、ここでは実際のところ、誰かの愛が誰かに届かなかったというだけ。サリエリは「美」を作り出す天才でありたかった。「美」に惹かれるからではなく、神から愛される資格を得るためにだ。しかし神はどうやらモーツァルトを愛しているようで、かつモーツァルトサリエリのようには神について考えていない(愛していない)。これはつまり、サリエリモーツァルト、神による三角関係の、一方通行型片思いの変奏であり、サリエリの苦しみは失恋した者のそれであるだろう。そしてこの映画は「美」それ自体の価値を問わない。それは美貌とかお金のような「愛される理由」に過ぎないからだ。