A GHOST STORY

JAIHOでデヴィッド・ロウリー「A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー」(2017年)を観る。主演の男女は、同監督「セインツ -約束の果て-」(2013年)と同じケイシー・アフレックルーニー・マーラなのか。アメリカの片田舎を背景にしてるところ、二人のカップルがある事情で一緒になれない、その状況でドラマが生起するところなど、共通する感触がある。

男が交通事故で死に、幽霊になって、一人残された女の家に戻ってくる。この世界の人々に幽霊の彼は見えないが、幽霊の彼はこの世界を見ることができる。ただし「ベルリン・天使の詩」の天使みたいに、特権的な視点から人間たちの心の中までわかるわけではない。「インターステラー」の四次元から三次元を見ているような感じに近い。

幽霊の彼にとっての生への執着は、この世に残った彼女にあるのだが、今の彼女が何を考えているのか、その心の中をのぞきこめるわけではない。ただ一人になった彼女が一人暮らしを続けるのを見ているしかできない。

彼女はやがて家を出て行く。どうも新しい男が出来たみたいだけど、その詳細は彼にはわからない。引っ越し準備で家の中を片付けてる彼女は、ドアと壁のわずかなすき間に、何か書き入れた紙片を挟み込む。隙間は彼女自身で塗り直したペンキによって埋まってしまう。その紙片には何が書かれていたのか、彼にとってそれは、彼女にまつわる何かを知るための唯一の手掛かりだ。

彼は空き家となった家に残って、隙間から紙片を取り出すために、隙間に爪を立てて少しずつペンキを剥がそうとする。緩慢な、まるで雨だれが石を少しずつ削っていくような速度でなら、幽霊でもこの世界に対して行為をなすことが出来るらしい。しかしその家にはやがて南米系の家族が暮らし始め、彼は心のやり場のなさを打ち払うかのように、ポルターガイストみたいに物音を立て食器棚の皿を取り落として、その家族を驚かせる。そんな乱暴な振る舞いも可能なのか。誰もいない部屋の片隅で大きな物音がしたら、人間としては怖いわけだが、幽霊としてはそれがせいいっぱいの行為なわけで、その孤独と寂しさを思うと本作の幽霊はじつに気の毒な存在だが、何の理由もなくさんざん驚かれた親子も可哀そう。

やがて住人が去り、再び空き家となり、さらに空き家が取り壊されてからも、彼はその場にとどまり続ける。やがて何百年も昔の、開拓時代のアメリカ、その地に新たな暮らしを始めようと家を建てた親子の姿を見る。幸せそうな父親と少女の姿を見て、やがてその二人が原住民の襲撃によって無数の矢を受けむごたらしく絶命した後の有様を見る。彼が見ているのはおそらく、その場に染みついて、あたかも化石のように今も残存している過去の時間であるだろう。それは人間の脳に宿る記憶ではなくて、場に根差した記憶、物質と化した感情、土に溶け込んだ恨みや悲しみや歓びといったものの成分だろうか。かつてここに誰かがいて、そして死んだ。その記憶が層になって無数に折り重なっているのが「場」そのものであり、幽霊としての彼もまた、その折り重なりの一層であるだろう。

そして物語はいよいよ「インターステラー」みたいに、かつての二人が共に暮らしていた時間へと彼を運ぶ。物語の冒頭にあった不穏な物音は彼の仕業だったのか。そして家を出て行こうとする彼女を呆然と見つめている幽霊の彼を、もう一人の幽霊の彼が背後から見守っている。ペンキに塗り込められる前の隙間から、そっと紙片をつまみ出し、彼はその内容を読む。

この作品の"こころにくさ"は、積層された数百年分の記憶の一断片を、幽霊である彼の目を通して我々に垣間見せてくれたとしても、彼の執着の中心である彼女の残した紙片の内容を、我々(鑑賞者)には伏せたままにしておくところだろう。紙片の内容も彼女の思いもそれを読んだ彼の思いも、すべて説明せずに彼は消えて、映画は終わってしまう。その唐突な消えかた、断ち切られたかのような終わり方から、ある種の哀しさというか寂しい感情をおぼえもするが、それはしかし思ったほど悪い後味ではない。