侵攻

侵攻されるとはつまり、自分の家に、他人が土足でずかずかと上がりこんでくることだ。だから家主は、そんなことさせるかとばかりに抵抗する。覚悟を決め、腹をくくって、玄関のドアを破ってなだれ込もうとする者に対して、なけなしの武器をもって立ち向かう準備をする。

あるいは、徹頭徹尾、無抵抗のまま、侵入する相手の、なすがままにさせる。目の前を土足でうろつきまわる傍若無人な者共らに、侮蔑の表情は向けるが何も言葉を発さずひたすら相手を無視するばかりだ。相手が武器を眼前に押し付け金品や貴重品を所望するなら、黙って傍らの袖机の引き出しを指し示すだけだ。

侵攻は許されざる暴力であるが、侵攻される者として如何に無抵抗を実現できるか、そのことを考えていたい。無抵抗であることとは、つまり相手と同じ土俵に立たないということだ。相手の暴力に内包されている意味(共同体的な意識、言語)と、私のそれとを接続しない、取り結ばないということである。

その結果、向けられた暴力によって私たちは死んでしまうかもしれないが、そのような死を、あたかも災害の被災者のように受け入れたい。…と、考えたり言葉にしたりするのは簡単だ。でも実際、そうも行かないのかもしれない。

そうやって最期を迎えた気高い犠牲者たちの姿を、映画は幾多も再現してきた。彼らの自ら死を選ぶ態度を尊いものに思うが、その思いを味わう暇もないほど性急に、彼らを置き去りにして、ふたたび映画はまるで汽車のように走り出す。彼らは死者となった。だからここに置いていくしかない。映画はなおも進むのだからと。

映画の死者たちを思い、その死者を未来の自分であると感じ、ここに置き去りになること、終わりをかみしめること、そうであるための勇気を持たねばと思うことは、しかしそれだけで良いのか、それを勇気ととらえるのではなく、もっと力強く柔らかく豊かな音楽のようなものに、自分をゆだねることもできないかと思う。

暴力や死に対して(戦うのではなく)、考えを一枚岩にしないことは可能か。一枚岩であることの安心、覚悟を決めてしまうことの安心というものがある。そのようなものからも自由である必要が。しかし必要とは何か。

「おい、俺はこれから死ぬぞ、お前とお別れするのは寂しいが、でもこの後が、ちょっと楽しみでもある」そう言って死んでいく爺さんも、かつていただろうか。