山の音

Amazon Primeで、成瀬巳喜男「山の音」(1954年)を観た。いつも思うけど、原節子という人物、この外貌の微妙さ…。まるで白いお面を貼り付けたかのような、ほんとうにこれで良いのか、うつむいて、うふふと笑って、曖昧な語尾の消え入るような喋り方で、それで感極まると、よよよよと泣く。ほんとうにこれで良いのか。鼻血を抑える場面は、さすがに良かった、こういうときだけは、ああ、これは見事だと思ったが。

上原謙が、もはや手の施しようがないほど鮮烈かつあっけらかんとした悪人で、嫁の原節子とは別に会社の子と一緒に夜遊びに行くし、他にもどこかに女がいるらしい。そのことを父親に隠すそぶりもないし、嫁にばれるのを心配してるのは父親である山村聰ばかりで、上原当人はほとんどどうでもよさげである。その荒み方の元には、何があるのか、会社でお父さんの庇護下だからか、戦争の記憶が作用しているのか、それはわからないが、とにかく何をどう言われようが、自らの行為を、何の逡巡もなく平然と肯定している感じがある。

中北千枝子のハイテンションな愚痴マシンガントークが、惚れ惚れするほど素晴らしい。加えて奥さん役の長岡輝子の、もはや枯れ切った味わいの無駄口とぼやき節が重なって、放蕩息子も含めた親子攻撃で畳みかけられて、家主の山村聰は心労の種が尽きないだろうけど、嫁の菊子さんとのやり取りにひそかな楽しみというか張り合いを感じてもいるだろう初老男性の、良い悪い範疇から軸足をずらしたいかにもな態度で、さらに成瀬映画の場合、そのような各人の様子が、同時多発的リフレインとして順次とらえられていき、日本家屋の縁側と障子に仕切られた各部屋が次々と呼応するかたちで、各々の空間が構成されていくので、それを呆然と見ながら、あー、やはり成瀬だなと感じ入る。

その上原が隠す「他の女」の謎をつきとめるために、山村聰杉葉子の助力を請うのだが、この映画における杉葉子は、じつにすばらしい。まっすぐな細身の身体で、ロングコートをまとって、すーっと立っている姿は、ほとんど幽霊のような、ご神体のような怖さがある。杉葉子こそ、この物語の深淵への導き手であり、謎の門の前に立つ案内人の役割を担っている。能面を付けさせられて、それを顔にあてて静止する。山村聰がはっきりと、恐れの表情をあらわにする。

たぶんこの映画の作り手たちが、杉葉子に対してぞっとするような恐れを感じている。それが伝わってくる気がする。そういうのが映り込むのは、本作でもそうだし「乱れ雲」とかでもそうではないか。この高身長の女をどうやってフレームにおさめるべきか、その緊張感がはっきりと滲み出ている感じがする。