裁かるゝジャンヌ

ザ・シネマメンバーズで、カール・テオドア・ドライヤー「裁かるゝジャンヌ」(1928年)を観る。有名な映画だ。ほぼ顔のクローズアップだけで出来ている映画。誤った信仰をあらためさせようとする教会や王様関係者たちに取り囲まれた状態で、ひとりだけ天上を仰ぎみながら、ときおり涙をぽろぽろと零す主人公ジャンヌ・ダルクの顔。たしかに顔ではあるけども、顔であると同時に頭部、その塊、それら人々の頭部という塊が、うごめくだけの映画という感じでもある。ゆらゆらと左右上下に揺らぎながら何事かが話し合われ、言葉の応酬が続く。その奇妙な頭部たちの、うごめくありさま。

ジャンヌを取り囲む男たちの視線が、さまざまな意図を含んだ視線を彼女に向けるが、ジャンヌは望む返事を返さないので、男たちはそのことに意外の態度を示し、口元で苦笑し、やや困惑気味の視線を、周囲へ目配せする。それを受けた相手もまた、隣の者へ同様の視線を受け渡す。緩慢な頭部の動作と表情と眼の動きによって、そこに内包される共感的な意味は、隣り合う人々へ順次受け渡されて、ジャンヌの周りを周遊し続ける。真ん中に置かれたジャンヌの視線だけが、たった一つだけ、ほぼ上方向へ放射されている。

先日観たメルヴィル「海の沈黙」のラストでは、ドイツ将校を見つめる姪の顔が、そのときだけ極端なクローズアップでとらえられていた。その顔面に穿たれた二つの瞳が、明らかにこの映画の意図というか、この映画の中心にある穴=輝きのように扱われているのだが、本作の主人公ジャンヌの瞳は、決してそのように何かを指したり輝いたりはしていない。ほとんど零れ落ちるかのように大きく見開かれた両瞳だが、それはまるでガラス玉のような、空虚な透明さをたたえているようにも見える。

重苦しい、行き詰るような緊迫感に耐えつつ観るしかないような作品だ。これから火刑に処される十九歳女性への、非情で残酷な最期の尋問を、じっと見届けるだけだ。十五世紀が舞台だとは思えないようなこの嫌な感じ、この不快な緊張感は、ある意味で二十世紀にふさわしいものでもあるよな、と思った。