リヒター

竹橋の近代美術館で「ゲルハルト・リヒター展」を観る。決して広くはない印象の、なんとなく圧迫感を感じさせられる会場内に、年代も傾向も様々な作品たちが、わりとぎっしり狭い間隔で並んでいる印象。先日佐倉の川村記念美術館に行って、その会場の広さと無意識に比較してしまったのかもしれないし、観客も多かったからかもしれないけど、ちょっと催事場の展示みたいな、限られたスペースに対する詰め込み具合が過密な印象を受けた。

いくつかの部屋に分かれて、それぞれの傾向や時代区分に沿った展示がなされている。割合的には近年制作の作品が多めで、作家の仕事の流れが見えてくるというより、貸与可能だった作品を集めた結果という印象だ。でもリヒターに限らず、それは日本で開催される巨匠の展覧会なら大体そうなるもので、かえって作品数少ない方が味わい深い展覧会になったりもする。まあ今回はこれらの作品群によってリヒター展がつくられたということだ。

ただし"ビルケナウ"と名付けられた作品だけは、他部屋と違って展示空間そのものに「意味」が付与されてる印象だ。向かって右手の壁に四つの巨大なタブローが掛かり、左手の壁には同タブローを撮影し等倍で出力したパネル四枚からなる写真が掛かっている。つまりオリジナルとその写像が対面させられていて、正面の壁はグレイがかった鏡面の作品が一面を覆っている。その反対側には、第二次大戦中、絶滅収容所で密かに撮影された数枚の写真(複製)が、壁に掛かっている。

おそらくここに何らかの意図・意味が付与されたということ、そのことはわかる。この作品について、この作品が示そうとしている意図というか、身振りというか、何か、もの言いたげな感じ、それについて、考えるべきなのか、考えるに値するのか、考えても無駄なのか、その前段階でこちらとしては、頭の中に、もやっと緩慢さが広がるのを感じる。まあ確認はした、というタスク完了を自らに付与するだけで済ませたくなる。

昔にリヒターを観たときも思ったけど、赤、黒、金の三色を使った平面の作品は、いろんな意味でもっともリヒター的ではないかと、個人的には思う。行き着くところ最終的にこの場所こそがリヒターではないかと、勝手に納得する。国家…とは言わないけどリヒター作品とはやはり何か巨大な意味、というか用途、というか何かふさわしさのようなものへ回収されることを、はるか遠くのどこかで待ち望んでいる装置、という感じがあるようにおもう。