ルネ、緑のハーモニー

竹橋の美術館の常設展示で、今展示されている新所蔵作品のボナールの絵の向かいに、マティスの小品(ルネ、緑のハーモニー)が掛かってる。この場所に来ると、ボナールとともにこの絵もじっくりと見るのが、ここ最近の自分の必須事項である。

この絵に限らないけど、マティスの人物画は多くの場合「手」が脱出口になってると思う。「手」に美的快楽値がグッと高まって、そこからエネルギーが抜けていく、あるいは最初から空洞の通風孔のようになっていると思う。

それが「手」だから、最初から穴のように扱っているのか、おそらくはじめから、それをまともに取り上げる気はない。どのような変遷を経ても、その場所は逃げ道として取っておく。顔はいつものやり方で、さささっとニュアンスだけで示されていて、でもそれだけでもそれなりに強いので、画面のなかでわりときっちりと顔の役割が効いていて、それは仮止めのあきらめ感の共有を誘うかのようでもあるけど、この絵の場合両方のたれさがる「手」はそうじゃない、この絵の「手」はふたつの、大小違いのある孔で、そのまわりを風が動いているし、そのざわめきはいつまでも待っても落ち着くこともない。

しかも、ここまで書いたそれらのことが、この絵の主たる問題ではないのだ。主たる問題は、ひとまず簡潔に言葉で説明するならこの絵が主に緑色だということ、その緑色が観るものに与えるあるショックにあるだろう。ささやかな小品に過ぎないこの画面のいたるところに緑色はうごめいており、それらの一つ一つにいちいち眼のピントを合わせて、それらを観ながら、ほとんど記憶から遠くなりかけた人物座像の記憶をたぐりよせて、その色の運動に混ぜ合わせるためのきっかけを探す。そのとき、あらためて「手」に目が行く。そのことで、あなたがそこにいたことを思い出すのだ。これが無意味でなくて、人物としてのあなたを観ていたということに繋ぎとめられるのだ。