一階のオートロック用の鍵と、自室のドアを開ける鍵の二つを持っているのだが、一階の鍵穴に鍵を差し込まなくても脇のボタンで決まった番号を押下すると開錠されるので、帰宅時はいつも自室ドア用の鍵しか使ってない。

うちは賃貸マンションで、僕はここに暮らし始めてからすでに十五年近くたつのだけど、一階の開錠番号を知ったきっかけは、ゴミ出ししてたとき二部屋隣に住んでいるお婆さんが一階のドア前に偶然いて挨拶して、そのときに教えてもらった。ここ知ってる?これ番号こうやって押すと、鍵がなくても開くのよ。便利でしょ。…そんな風に教えてもらったのも、すでに十年以上前だった気がする。あの婆さん、最近あまりおもてに出なくなった、当時すでに相当高齢だったけど、今もまだ、元気は元気なはず。

で、それを教えてもらって以来、僕も一階の鍵は必要なしになったわけだが、たぶんこのマンションの住人で、これを知ってる人は少ないんじゃないか、もしかすると、あのお婆さんと自分だけではないか、という気もする。賃貸ゆえに人の行き来はそれなりに激しく、十年以上住んでいるような人はあまり見かけないというか、そもそも住人同士がほぼ没交渉なので長いか短いかもわからないのだけど、ちょっと見かけるかどうかのレベルで、自分ら以外がどんどん入れ替わってるのは、なんとなくわかる。すくなくとも自分の階で十年以上住んでいるのは、我々とあの婆さんだけだ。

賃貸マンションというのはそもそも間借りの場所であり、家族の過渡期を支える暫定拠点であり、仕事の都合だの、子供の成長だの、所得や何かの変遷などに応じて、入ってきたり出て行ったりするあわただしい場所で、ある意味ホテルや駅の待合室のような要素もある半公共空間のようなものだ。

しかし共同住宅の住人同士としては、刹那的一時的と言い切れない程度には短くない時間を、壁越しフロア越しで半共有するところもあり、それはもっぱら生活音というか、人々の声によってだけど、小さな子供のいる家の独特なやかましさ、活気というのがあって、ああ今日も賑やかだなと、開けた窓の外からうっすらと聞こえてくる子供たちの声や物音で感じられるものが、それが五年とか六年とか経過したら、高い声を張り上げてやかましかった子供の声が気づけば聞こえなくなっていて、ある日突如としてエレベーターの前に、ぬーっと異様に背の高い高校生がいて、まさかあれがしばらく前まできゃーきゃー騒いでたあの子かと、見えないところで急速に成長している不気味さに、ほとんど野の雑草を連想させるほどの生命力、ならびに万年相変わらずな生活を続ける我が夫婦とはまるで異なる時間感覚のギャップの大きさを感じさせられたりもする。

話が飛んだけど、開錠番号を知って以来、鍵は使わずにオートロックの数字ボタンに連続で押下すると、開錠の音がしてドアが開くわけで、その番号を以降今まで、おそらく十年以上は打ち込んでいるわけだが、この開錠番号を打ち込む所作が、完全に自分の身体レベルの記憶になっていて、パネルの前に立てば無意識にでもそれを打ち込めるのだけど、たとえば今こうしてこの文章を書きながらそのことを思い浮かべたとき、ではその番号は何か?と自分に問うとき、信じられないことだけど、それをはっきりと意識にのぼらせることができない。もし番号を言ってみてくださいと尋ねられても、いま答えられないのだ。そもそも3×3だか4×3だかで並んだあのボタン番号のレイアウトが、どんな感じだったか、それを視覚イメージで思い浮かべられない。あの並びに対して、決まった所作でだだだっと打ち込む、それで鍵が開く、それだけの記憶しか保持していないので、それが数字で何番の連続なのかを、今まで一度も意識・自覚したことがないのだ。意識していなくても身体がおぼえている、自分のなかのそのようなレベルの記憶のひとつがそれだ。

で、さらに言えば、さすがにこういうことは後にも先にも一度だけなのだけど、ある日のことだけどふいに、その開錠番号を忘れてしまったことがあったのだ。もちろん正確に言えば、番号を忘れたのではなくて、パネルの前で、決まった所作でだだだっと打ち込む一連の行為、その「感じ」を忘れたのだ。その行為を支えていた安定感、その行為を担う身体の安定性、それを基盤にして稼働していたはずのあるサービス。。それらがふいに、意識から飛んでしまった。どこからどこまでを、どのくらいのスピードと間隔で打ち込んでいたのかを、とつぜんド忘れしてしまって、完全にその場で立往生してしまったことがあった。

このときのかすかな焦りと、…いや大丈夫、どうにかなる、ちょっと冷静になれば絶対に思い出せる、、と自分に言い聞かせたあの気持ちは、今でも思い起こすことができる。数字や文字列を思い出すのよりも、きっと容易だと思ったのだ。あの所作、あの一連のルーティン、あの確定された機械的な行為の感覚だけを、思い出せれば良かったのだから。

いったんその場を離れて、周囲を散歩しながら、つとめて冷静さを取り戻し、何事もなかったかのように再度マンション入り口に戻ってきた。リラックスした気分でパネルの前にたち、自分がいつものような自分の身体をここまで運んできたことをどこかに言い聞かせながら、あらためて開錠操作をこころみた。

鍵は開いて、いつものように自分はマンション内部を自室まで急いだ。心のどこかに、すごい、よく開けられた、なぜ開いたのだろう、奇跡的じゃないかとの思いが、抑えがたく湧き上がってきそうだったのを、どうにか無視して、無理にやり過ごして、平然とした態度を装っていた。それはいつもの行為で、それによってドアが開錠されるのは、当然のことでなければいけなかったからだ。