記憶

たとえば、1+1=2という数式があって、ここには時間の流れがあるとする。1から、次の1へ移り変わって、そこにアクションが生じて、その結果2があらわれるという、物語でもあり時間の流れでもあるような、あるもっともらしく決まった取り決めのようなものが感じられる。しかし実際は、ここに時間の流れは無いし、物語もない。イコールで結ばれた両辺は等しいのだから、左から右への時間推移はないはずだ。

現在と過去というとき、どうしても過去の積み重ねの最上位に乗っている現在というイメージを多い浮かべてしまうが、ベルクソンはそのようには過去と現在を捉えていない。

現在というおそろしくあやふやな、ほぼ無に等しい、尖端でしかない領域と、その影であり潜在である過去とが、同時に生成されているというのがベルクソンの見立てで、その二つが傾向として差異化される、ある流れというか動きを生じるのを、持続と呼んで捉えようとする。それはおそらく川のような流れそのもので、しかしそこに二つの傾向があるがゆえに、ただの流れではなく名指される何かを意識できる、それが持続であり、過去と現在である。

おそらく流れという事象そのものの考え方を更新する必要がある、時間という言葉に紐づく流れのイメージを考え直さねばならない。言葉も、数式も、音楽も、時間の流れをもち、移動するのだが、記憶はその仲間ではないというか、記憶はそれらの支持体として、時間の流れのさらに真下にある。

ここが何度考えても難しいのだが、何度でも想像するたびに「ええー…?」っとなる。