雨が降ったり止んだりしている。窓際で外の空気を感じながら本を読んでいた。

雨脚が強くなり腕や顔の表面に雨の細かい飛沫を感じると窓の開け幅を狭めて、雨が弱まると元に戻したりしながら、窓際から動かずにいた。

台風のような気象状況下では、雨と晴との境目がほとんど消失する。五分前まで晴れていたのに、今はざあざあ降りとか、そういう変化が一日のうちに何度も起こる。

人間は一日のはじまりに、今日は晴れだとか雨だとか感じ取って、それをもとに気分を構成してその日をスタートさせるのだろうが、台風はそのような初期設定を人に施させてくれない、あるいはいったん決めた設定をすぐに変えざるを得ない。

台風は人に気分を決めさせない。その一日を、気分不確定のままで過ごすことを強要する。

気分が不確定であることは、気分の良いことではないし、気分の悪いことでもない。

それは自分を、とつぜん浅瀬に迷い込んだ小魚のような存在に感じさせる。

でもそれは、この身体とこの時間を前提としたうえでの怯えに過ぎないとも思う。

時間というものが、あらかじめ与えられているのではない。それは希薄化したり緊張したりする。

(ベルクソンの考える世界に「重力」は作用しない)

分割不可能な運動、それがすなわち実在だ。そして、すべては移行の途上にある

持続が希薄化すること、それが必然であり物体である。必然とは、弛緩した記憶のことだ。差異なき反復、それは死だろうか。

記憶が収縮すること、持続が緊張を高めること、それは自由と呼ばれる。必然ではない、つまり差異のあらわれだ。