映画で

映画において、ある登場人物が存在している(その人物が映されている)状態があり、その登場人物が、何事かを想像している状態(回想場面あるいは未来想像の場面が、映されている)があるとする。

映画を理解できるというのは、この二つを混乱することなく整理できているということだ。いまここに映っているこの場面は、いまここに映っていない、ある何か(場面、というか、ある持続的なもの)に紐づいていると、きちんと了解して見ることができる。今ここに映っているものは、今ここにあるものだけではなくて、他と関連し、他との相互連関によって成立しているのだということを、誰もがわかっているということだ。

もちろん、誰もがわかる必要はない。映画は、それをわかってもらいたいとは思ってない。というより映画そのものが「それ」を知らない。

映画は、観客がわかろうとする「それ」に対して、まるで無頓着にことを進める。昔からずっとそのようにしてきた。「それ」をわからせようとする勢力との関係を探りながら、観客は映画を観続けるし、映画に対して自分の好き勝手に、自分好みの関係を保つように、その権利を保持し続けようとしてきた。

ある人物のあらわれ、ある知らせの到来、ある季節の気配。

それがもたらすものの重み、そのインパクトが、映画であろうが、今ここであろうが、映画はそれを区別のつかないものにしてしまう。

誰かの頭の中で起こったこと、私の頭の中で起こったこと、誰かの頭の中、何かの中、囲い込まれた箱の内側、誰にも見えない領域内だと思っていることを、映画館に集まって、皆でお互いに広げ合って、共有し合っている。そのようなやり方も、あるはずだ。