雪だるま

ドゥルーズによるベルクソン著作の選文集「記憶と生」を開いてすぐの「1持続の本性」より引用。「持続」をさしあたり把握するためには、これを繰り返し読んで考えるのがよさそう、と思われる箇所のほぼ前半。

たしかに私は、自分が変化する、と言っているが、ここでは変化はひとつの状態から次の状態への移行そのもののように私には映っている。個々の状態ひとつひとつについては、それが生じている間じゅう、それはそれ自身のままあり続けると、私は思いたい。ところが、この私が、ほんのわずかでも努力して注意を払ってみれば、不断に変貌を遂げない感情も、表象も、意欲もないことがたちまちわかるだろう。ひとつの気分が変わることをやめるなら、その持続も流れることをやめるだろう。内的状態のうちで一番しっかりしたもの、静止した外的物体への視覚を取り上げてみよう。事物は同じであり続け、私はそれを同じ側から同じ角度で同じ光の中で眺めている。それでも、私が今持つ視覚像は、たった今持っていた視覚像と異なるほかはない。それは、その視覚像が一瞬だけ古びたという理由で、すでにそうなのである。私の記憶はそこにあり、それがこの過去のなかの何ものかをこの現在のうちに押し出している。私の気分は、時間の経路を前進しながら、引き入れる持続によって絶え間なく膨らんでいき、言わば、みずからの雪だるまとなる。

「流れ」を単なる水の流れのように思うだけでは足りない。それはすでに、過去によって押し出された何かの影響を受けている。

今この現在であると信じたい一瞬は、すでに絶え間なく膨らんだ雪だるまとしての現在であり、それはつまり私の過去だ。その「今」がすでに、もはや雪だるま状態なのだ。