まず私

まず私がいて、何かを感じたり、幸せを感じたり、悲しんだりする、、という前提を保留しなければならない。

まず私、それは、いない。そのときに想定している、あの「土台」はない。

あると感じるなら

意識は、区分への止みがたい欲望に突き動かされて、実在を希望に取って代えるか、記号を通してだけ実在を見てしまう。このように屈折し、このことによって細分化した自我は、社会生活一般の要求、とりわけ言語の要求に限りなく巧みに応じるものとなっているから、意識はこの種の自我の方を好み、少しずつ根源的な自我を見失っていくのである。(記憶と生 17頁)

ここで見失われるとする、根源的な自我が、いわば「本当の自分」とかよりももっと厄介な「まず私」より以前にあったものを指すだろう。

根源的な自我と書かれると、それは「つまりこの、まず私のこと」だと、どうしても思ってしまうが、そうではない。根源的自我はひとまず、暫定的モデルとして想定しなければならない。しかも、その想定は確実に間違っているので、途中で廃棄する予定があることも認識しておかねばならない。

それは「この私」を否定するための手続きではなくて、むしろ「この」「私」それぞれをその条件下においてきちんと定義するために試みられることだ。