1997年刊行の、中井久夫アリアドネの糸」に収録されてる「私の「今」」という文章のなかで、著者はこれまで生きてきた過去において、それを機に自分の認識する世界が「今」へと変わった、その境目の年が、自分にとっては三層あると述べている。一つ目が一九九五年の阪神・淡路大震災ならびにオウム事件、二つ目が一九八九年の冷戦終了と昭和天皇の逝去、三つめが日露戦争であると言う。

中井久夫という人物の、ものごとに立ち向かう姿勢の果敢さ、強靭さは、あまりにも力強くて、感動的でもあり、その一方で、これほど立派な人物には、さすがについていけないという気にさせるようなところもあると自分などは思うのだが、なにしろ昔気質な、とにかく筋金のような気合の入ったすごい人間であることは確かだと思う。そのような確固たる基板をもつからこそ、あれだけ豊穣で柔らかで機知に富んだ、教養と知性に満ちた文章が、成立するのだろうと思う。

さて各三層だが、一九九五年の阪神・淡路大震災については以下の言葉に、思わずはっとさせられる。僕は当時、そんなことは思いもよらなかった。でも歴史をふまえた視点をもって考えれば、たしかにそのような危惧も、ありえたのかと(あれから二十五年以上経過して「その危惧はさすがに笑い話だったね」と言える場所に、果たして辿り着けているのか)。

この震災において、関東大震災のような少数民族・外国人・異端者虐殺が起こらなかったのは、おそらく好ましい前例となり、今後の災害において起こる確率を減らしたと思う。実は世界は固唾をのんでどうなるかと見守っていたのではないか。私もまさかと思いつつ、ひょっとしたらと危惧しないではなかった。そういうことがあれば私は身をどう処すべきかとひそかに考えないではなかった。今から考えれば笑い話であるが---。

オウム事件については宗教に対して社会がもつ一般的恐怖心、社会不安を巧みに利用しようとする暗い勢力への警戒を怠るべきではないと述べられている。たしかにそれはある意味、当の宗教団体よりも、よほど恐ろしいものであるだろう。

大戦下のように片言隻句を聞きつけられると憲兵隊が呼び出しにくる遥か以前に、大正末期から昭和初期にすでに軍のことは触れないようにしなければという事なかれ主義があった。すでにマスコミを含めてこの風潮があるのではないか。われわれは恐怖を先取りして貝になりがちである。

一九八九年については

私が生きている間に冷戦が終わるとは思っていなかった。ましてどういう形で終わるかは想像がつかなかった。私は一種の猶予期間を生きていた。それは私の中学一年生から五十五歳まで、すなわち実質的な一生涯にあたる期間であった。

二大国が核兵器の照準を相手に向けあった状態で沈黙を続ける時代が終わるというのは、やはりこれまで感じたことのなかった緊張の緩和、弛緩、あらたな空気の出入りする予兆を、当時ぼんやりとした高校生だった自分さえ、あまり明解な意識としてではなくとも、おぼろげにでも感じたような気がする。

そして日露戦争の時代。日露戦争は一九〇四年から五年である。

おまえは一九三四年生まれであって、日露戦争を知らないじゃないかといわれるかもしれない。しかし、人は何らかの社会に生れつく。私は日露戦争後の社会に生まれ落ちたのである。
 私にも日清戦争は遠い。実感がなく、錦絵のように遠景に溶け込んでいる。参戦者もおらず、実戦談も聞かなかった。江戸時代のほうが実感があるくらいだ。(…)
 しかし私が小さかった頃、日露戦争は昨日のごとくであった。そのように周囲の大人たちは語り合っていた。日露戦争が敗北に終わった場合を私は想像することができない、たぶん、私の世界の中で江戸に属する部分は残るだろう。その部分はそういう硬さを持っている。今の私の中にもどこか命脈を保っているくらいだから。しかし、その他は?漱石、鴎外も日露戦争の戦後文学である。
 と同時に、太平洋戦争に至る過程の引き返し不能点がどこにあるかを考えた時、私は日露戦争の戦後処理に考えが行き着くのである。ロシアに得られなかったところを中国に求めて大陸進出を考え、(…)

日中戦争も太平洋戦争も日露戦争ほどには私の時間を「今」と「昔」に分けるものではない。日中戦争日露戦争の一つの帰結であって、挫折したシベリア出兵の延長である。そして太平洋戦争は日中戦争における「聖域」を叩こうとする、ベトナム戦争の「北爆」に当たるものであった。そして私が戦後に入っていったところは本質的には「辛うじて生き延びていた大正時代」であった。つまり日露戦争の戦後である。

一九三四年生まれの人物がものごころついたときの社会が「日露戦争は昨日のごとく」だったというのは、虚を突かれる感もあるし、なるほどそういうものかとも思う。それを聞けば、戦争を望んだのは当時の日本人自身だったのだとの説にも、納得せざるえをえないものがある。理不尽なこと、非合理なこと、納得できないことに対して、我々は怒りをおぼえ、抗議し、声をあげる。そしてその声が寄せ集まり、唱和となっていくことに高揚をおぼえる。しかしこれこそが自らの可能性を狭めてしまう。あの惨禍を経て、何もなくなった地面が、あの「日露戦争の戦後」であることに気づくというのでは、あまりにもむなしい。

ならば私は、いつ、どんな時代に生れ落ちているのか、何をあらかじめインストールされ、何に影響され、どれだけの許容量があり、何を許せず、何を望むのか、あるいは何を規制され、何を制限されているのか。

動揺せず、心安らかに、与えられた型枠を無視すること。それとともに、自分と異なる者を、できるだけたくさん尊重することが、そのまま抵抗になりうるということだろう。全体として、どこまでも冗長であること、非効率で非合理なうごめきのままであること、カテゴリー化されず、グルーピングされず、把握も理解もされないままであること、したがって施策や対策の取りようがない、実態の掴めない対象として、変わらず存在し続けること、そのような者同士が互いに尊重しあいつつ、各自態勢を維持することが、闘いの手段として有効なのだ。もちろんそれを闘いとか抵抗だとか、いっさい思わなくていい。いつものように、自分がなすべきことを、いつものように、リラックスしてのんびりやれば良いのだ。