植物性と動物性

植物的な存在は固着的なものとして、運動性の本質的な乏しさを特徴とする生命である。これに対し動物的な存在は可動的なものとして、運動性との親和性は明らかである。植物は、自己保存の活動である栄養摂取と生殖を、さしたる動きをせずにおこなうことができる。植物の枠組みのおける生命の諸分岐は、こうした固着したあり方をとりながら自己保存が可能な方法をさまざまに追求し、その戦略をくりひろげていくだろう。動物はそのようなものではない。それは運動をなさないならば、自己の生命の保証すらできないものである。動物の進化は、自己がさらに運動的になり、その俊敏さを高めていくことに結びついていく。この二つの傾向の差異とは、固着性のなかでの生命の保持と、可動性をさまざまな仕方で発揮することという、運動性の強度についての差異なのである。

 しかしさらに重要なことは、こうした運動の展開にしたがって生命に意識が成立してくることである。植物的な生では、意識はむしろ麻痺し眠ったような状態にあるだろう。それは植物が生きる時間が、きわめて緩慢な仕方で現在に閉じ込められていることを示している。麻痺的であるとは、生命が自己のあり方そのものを受容する傾向が強いことを意味するだろう。

 これに対して動物は、その可動性において意識をともなう生を展開する。もちろんたんに可動的であるということは、意識を成立させる理由にはならない(機械の素早い動きが意識をともなうわけではないように)。しかしここで、動物における可動性が何を意味するのかを考えることが必要である。可動的であるとは、生命が一つの形態や環境にありつづけることから抜け出して、多様な場面に自己を置きうることを示すだろう。運動をなしうるとは、ある範囲内ではあれ環境の受容から抜け出して、自己の活動を別様な場面に展開することではないか。こうした事情は、点のように一つの場所へ固定されざるを得ない植物性から、平面上でざまざまな移動をなしうる動物性への質的な跳躍であると描くこともできるだろう。それは点から平面へという仕方で、行動を別の次元に展開していくような進化である。この跳躍は、生命の動きにさまざまな選択の余地を、つまり不確定性をもたらすものである。運動の質的展開によって産出されるこの不確定性の領域を、ベルクソンは意識と呼ぶのである。

檜垣立哉ベルクソンの哲学」第三章 分散する一者としての生命 211~212頁

であるならば、自分がスズカケノキに感じている「生命感」とは、彼がきわめて緩慢な仕方で現在に閉じ込められていて、非可動的で、その緩慢で物質に近しいような生命、自身がそうであることを自ら受容しているかのような様子であることの「気配」なのだろうか。

スズカケノキから「緩慢さ」とか「物質性」を感じてはいないのだ。いや、それは大前提であって、スズカケノキから受け取るべき対象ではない。「緩慢さ」とか「物質性」はスズカケノキを植物的生命としてそこに存在させている基盤部分に属している。その上に、非可動性が乗っているのだけど、その非可動性とは、要するに木肌の色と模様によって、さらに言えば樹木全体の大きさと形状によって、結果的には可動性の痕跡としてあらわされているように思うのだ。(木の、無意識ではなく非・意識、としての主体性、を感じている、動物とも知性とも違う他者の気配を感じている)

これはおそらく動物的生命がその運動性や可動性においてあらわすことの出来るものとは根本的に違う。動物的生命は環境の受容から抜け出すという、その運動性そのものに存在を、持続として記録(?)するだけだ。しかし植物はそのようなことができないので、ほぼ物質としての自らの表面に、「麻痺し眠ったような状態」でありながらも、その時空を緩慢に受容する様子を、記録し続けているのではないかと考えたくなる。