リトアニアへの旅の追憶

渋谷のイメージフォーラムジョナス・メカスリトアニアへの旅の追憶」(1972年)を観る。

光の明滅、ブレ、揺らぎ、繰り返しと切断によって、あらわれては消えるイメージ。損なわれるのではなく、生み出されるわけでもなく、今目で見ているそれが、イメージそのものだ。しかしなぜ、これほどまでに茫洋として掴みどころのないもので、同時に消しようの無い確固たる記憶のように、これらのイメージは在る。

「西へ行け」。叔父の言葉を背に受けて彼は故郷を旅立つ。が、それは果たされず、彼はナチスに捉えられドイツで強制労働に従事させられる。戦後彼は難民船でアメリカへ渡る。難民として過酷な年月を過ごしたのち、やがて再び故郷を訪れ、母親や兄弟と再会する。

路上に座り込む難民たちと、幸福そうなアメリカ人たち。幸福は忘却を経てしか訪れない。「すでに、かつての出来事を忘れてしまったのか?」忘れなければ幸福はない。だとすれば幸福は決してありえない。彼の記憶に残る占領下の記憶。母親の記憶に残る記憶。物陰に潜む警察や軍人たち。真夜中にドアを蹴破って人の家に入ってくる者どもの記憶を忘れてしまわなければ。

幸福そのもののような、母親と兄弟たち、家と庭と猫と鶏と、草刈り釜と水と薪の火、巨大な農耕車、森と麦畑、それらの景色。これらのイメージすべてに、かつての記憶が貼りついている。幸福に見えるということはどういうことか。その裏側にべったりと貼りついているはずの、かつての忌まわしい記憶は映像に映り込まない。それどころか今見えるものがすでに朧気で儚い。「私は今でも難民である」。前世紀から今にいたるまで、ずっと難民の世界が続いている。

戦争がもたらした傷というものがある。この映画にはそういった要素がいっさい映り込んでいないけど、だからこそ余計に、このイメージすべてが、徹底的に傷付けられたあとのもの、という感じがする。にもかかわらず、夢を見ているかのように儚くて、黄昏のようなやさしい光に満ち満ちている。

それにしても…1971年は、僕が生まれた年だ。ジョナス・メカスの母親は1887年生まれで、ということは撮影時で84歳くらいか。リトアニアというまったく未知の国に生きた人々の暮らしが、なぜか「この感じを、僕も知ってる気がする」との思いが浮かび上がってくる理由がわからない。ガスも水道も電気もない、プラスティックとか合成繊維とかがほぼ見当たらない、今では考えられないような生活が、まだそこにはある。もちろん1971年がそんな素朴な時代だったわけではないけど、そういう要素もまだあった。