折れる

寒い朝、駅前でポケットティッシュを配ってる人、ビラだかチラシかを配ってる人、工事現場の警備で立ってる人たちは、もしかしてこの世で一番辛い仕事をしてるのではないか。

暑さは身体への負荷が高いけど、寒さは心への負荷が高いというか、寒さが身体より先に心を閉じさせ、収縮させ、ダウンさせる。心は暑さに対してあまり敏感ではないというか、ようやく気づいた時にはダウン寸前みたいな感じがするが、心が寒さに気づかないみたいな状態は考えにくい。

単に、自分が暑さより寒さのほうが辛いと言ってるだけなのか。たとえば十分間だけ我慢するなら、灼熱地獄と極寒地獄どちらがいい?と言われたら、たしかに前者を選ぶだろう。

心が折れる」という修辞はまさに、寒さに耐えられなくなったときこそ使われるべき言葉だと思う。その事態を表現するために考え出されたのではないかと思う。

全然話は違うけど、以前「猫たちのアパートメント」という映画のなかで、「人間は猫に思い入れして缶詰のごはんをあげるけど、猫から見たら人間はみなただの缶切りである」とか言うセリフがあって、そういえば人間の自分が、他人を見て人間だと思わないシチュエーションはあるな、と思う。

たとえば朝の混雑したいつもの時間にいつもの電車に乗って、車両の中程まで移動したとき、前に座ってる人がたまたま、いつも必ず数駅先で降りるとわかっているいつもの人だったときに、自分は幸運を感じる。あと少し待てばその席に座れるからだ。そのとき僕は目の前に座ってる人を、電車の座席に座ったときの身体感覚、あの力の抜けたような温もりに包まれたような、あの感触そのものだと認識している。その人物の、人間として動き考え生きているだろう類の想像はいっさい広がらない。人間ではなくて空席だと思っている。

しかし、そんなことは珍しくもないし、書くまでもない話だ。いくらでも思いつく。逃亡者が警官を見たとき、男が女を見たとき、スリが泥酔者を見つけたとき…。