すべてを顕在的な部品のみで説明、解釈するこではできない。かならず理念、潜在的な力は必要とされる。そうでなければ「説明がつかない」。いや、説明を付けるという行為そのものの、不可能性でもある。

円周率πは、無限級数極限値として定義される実数であるから、いくら計算しても、πの値は定まらないし、定めることは不可能である。だから、数値を実効的に定められる有理数だけが現実的に存在すると言うとすれば、πについては、現実的に存在するというわけにはいかない。両者の存在性格は本質的に異なるからだ。確かにπは存在するが、イデア的(理念的)に存在する。ここまでは、よい。その上で、理念的で微分的なもののリアリティをどう解釈するかが問われる。(…)

では、微分的なもののリアリティを肯定的に認識するには、どうすればよいのだろうか。πのリアリティをきちんと認識するには、どうすれば良いのだろうか。ドゥルーズの答えはこうだ。自然界と生物界の現実的なものに、微分的なものが潜在するからこそ、それはリアルなのである。では、どうしたらそんなことが言えるのか。ドゥールズの答えはこうだ。微分的なものから、現実的なものが発生するからである。それを示すためには、解けない微分方程式について考える必要がある。(…)

世界は円く納まらない

世界が平面であると想定しよう。そこには扁平で厚みのない生物が棲息している。

 平面上の万物は円で構成されていると想定しよう。平面上のプラナリアは細長い形をしているが、よく見ると多数の円が寄り集まってできているし、平面上の三角形も無数の円が寄り集まってできている。もちろん平面世界でも、万物は生成して消滅する。生成とは多数の円が集合することであり、消滅とは微小な円に分散することであると仮定しよう。

 平面世界には悟性的生物も棲息している。それは知的であるから、自分が円の集合であることも、万物が円の集合であることも知っている。だから悟性的生物は、万物を表す数学的な方程式は、円の方程式x²+y²=r²であると考える。そして、万物を創造する神が存在するとしたら、神は円の方程式に従って世界を創造すると考える。

 クセノフォンによれば、サルに信仰があればサルのような神を信仰するし、スピノザによれば、三角形は神を三角形と信仰するはずである。だから悟性的生物は、神を途方もない円として、いたるところに中心があり、どこにも中心がない途方もない円として想像する。こうして世界は円く納まることになる。
 
 ところがこんな平面世界に、ドゥルーズという名前の理性的生物が登場する。そして円であるとは考えられないものが存在すると言い始める。第一に、世界が円であるはずがない。世界が円であるなら、世界は、万物の一つに成り下がって(成り上がって)しまう。ドゥルーズは、ラッセルという名前の悟性的生物が案出した議論を利用する。世界は万物を含むものである。万物は円である。世界が円なら、世界は万物の中の一つということになる。とすると、世界は万物を含み、かつ、世界は万物の中に含まれることになる。パラドックスだ。ドゥルーズはこう進める。世界はパラドックス的な場である。世界は円であるとも円でないとも言えない。世界は万物とは異なる仕方で存在する。世界は理念的である。第二に、円の離合集散を引き起こす力を、円であるなどと言えるはずがない。力は見ることも聞くこともできないが、確かにある。しかし円としてあるのではない。円に潜在するのである。第三に、円を限りなく分割しても円であるし、円を限りなく延長しても円であるから、世界には、相互に異なる円を限りなく生産する力が潜んでいるはずだ。この力はベクトルを示すという意味で微分的なものである。世界は微分的であると言うことができる。
 
 そしてドゥルーズは、世界を円く納めようとする連中と数学的にも闘おうとする。神の数学として崇拝される円の方程式に、微分という操作を加えるのだ。そして微分方程式(xdx+ydy=0)は、理念的で潜在的なものを表現すると宣伝する。こうして世界は円く納まらなくなる。

ドゥルーズの哲学」小泉義之 (講談社学術文庫 51頁~)