解けない問題を解く

微分方程式は解けない。微分方程式が求める解は関数だが、それは決して解くことができない。(解けないとはつまり、微分に対して積分することができないから…ということらしい。)我々は、微分方程式を作り出すことはできる。しかし、微分方程式を解くことはできない。

私たちは、問題を立てても解けない。私たちは、解けない問題を立てることができるが、解くことはできないのである。この場合、どう進むべきか。驚くべきことに、思い迷って足が止まるどころか、何の気なしに事態は進行する。解き難い問題、解けない問題に対して、あたかも解を出したかのように(…)何らかの実践が組織されるのである。

解けない微分方程式に対して、数値解析とか数値積分によって、数値解を出すのである。そのために多くの技法が開発されてきたが、基本的には微分を差分(差異)に置き換える計算技法である。ところが、これだけではいかにも心許ない。真の解が存在するということが分からないと、数値解にどの程度の意味があるのかを判定し難いし、数値解を近似値と呼ぶのもためらわれるからである。数値を計算しても、何をやっているのか自分でも分からなくなるのである。そこで数学的には、かなり厳しい制限条件を課した上で、解けない微分方程式に真の解が一意的に存在することを証明する。これは適切性と安定性の証明と呼ばれていて、本質的には極限の存在証明と同等の証明である。それを受けて、数理科学者は、解けない微分方程式について、コンピュータを駆使して数値解を計算する。解けない微分方程式を、近似値的にではあれ、解いたつもりになれるわけである。

 しかし、そうは問屋がおろさない。事態はそれほど簡単ではないのだ。パラメータが隠している要因を顕在化させて立てられる微分方程式については、真の解が一意的に存在することを証明できないのである。微分方程式が適切で安定であるかも定かでないし、真の解があるかも定かでないのである。にもかかわらず、あるいは、だからこそ、数理科学者は、一心不乱にコンピュータにかじりついて数値解を計算する。当て所なく計算しているどころではない。当て所なくということが、有るのか無いのかさえ分からずに、計算しているのである。皮肉な見方をすれば、数理科学者は、己れが為すところ知らぬままに、コンピュータで遊んでいるだけである。その皮肉は半ば以上は正しいが、それだけでは余りに虚しい。では、どう考えれば良いのか。
 
 数理科学者のコンピュータ遊びの全過程を見直してみる。最初に、解けない微分方程式がある。すなわち、微分的なものが要請されている。最後に、複数の数値解が弾き出されて座標空間にマッピングされる。すなわち、現実的なものが差異化されて分化している。途中では何が起こっているか。数理科学者とコンピュータが一体となって、解けない微分方程式を引き受けて、いくつもの条件を自ら設定して、いくつかの技法を駆使して、膨大な計算を実行している。ドゥルーズの解釈はこうだ。以上の過程の全体が、自然界と生物界においては、自然物と生物に畳み込まれている(…)。だからこそ、数理科学においても、微分的なものはリアルであるし、そこから現実的なものを差異化して分化する過程もリアルなのである。端的に言えば、現に風が吹くから、現に人間が生きているから、リアルなのである。

ドゥルーズの哲学」小泉義之 (講談社学術文庫 56頁~)