内実

1月27日の「郡司ペギオ幸夫×保坂和志イベント&オンライン配信」をふたたび聴いた。やはり郡司ペギオ幸夫の「ハレルヤ」についての言及が素晴らし過ぎて、聴いていて思わず泣いてしまう。以下は自分なりに備忘で書き留めたもの(トークの書き起こしではない)に、自分も「ハレルヤ」を再読したうえで、さらに色々と書き加えたもの。

「ハレルヤ」冒頭に出てくるかぐや姫の話について、それが死を暗示する物語だとは誰もが気づくのだろうが、本作の主人公は当初そう思わず、猫の死を何度も看取るという経験を重ねることによってそれに気づく。

かぐや姫という話を主人公はもともと知っていたから、つまり情報は最初から届いていた。しかしその情報に含まれているはずの意味は、主人公に対して遅れて伝わったというか、主人公が自身の経験を通じて、それを経由した自分であることによって、その話の内実を、はじめて受け取った。

(受け取ったというアクションが起きているというよりも、「私」は日々月に手を合わせることを欠かさなかったのだ。花ちゃんが旅立った日は「満月でなかったが新月だから記念すべき夜と感じた。」)

「ハレルヤ」を読み返して、初回に読んだときとは違う、そのときには気付けなかった、そのときの興味や関心からはこぼれた、あるいは忘れてしまったことを、僕もそれではじめて受け取る。これが今の自分にとっての「ハレルヤ」の内実だ。

理念的なものと経験とは分離している。、が、あるときを契機に両立し混合する。過去と現在から未来を想像するとき、その未来とは現在の延長だ。養老孟司は「予定を書き込みたくない、予定表に書いてしまったら、今からその時間までが「現在」になってしまう」と言った。

出来事としての今だけ。それで終わりではない。「その時間のことじゃない!」。人間の世界だけに隠蔽せず、「悲しみを利用する連中」の口車に乗らずに、過去も現在も無く多様にうごめいている様々なものへ想像を巡らす。この現在と未来を、単一な出来事として隠蔽せずに、矛盾しながら両立するものを肯定的にとらえ、変えていくこと。今この場の正か非かではなく、条件式が連鎖することで、現在と未来とで異質なものがつながる。媒介させるものが、出来事から条件へと変わる。

花ちゃんの叫び。それは劇的な出来事だ。しかしそれは一度切りの出来事だけではなくて、時間を経て、解釈が変わっていく。(叫びの意味。Lアス「やる!」が「二カ月じゃない!」そして「その時間のことじゃない!」へ。)

満たされた条件、得られた情報、そのことで次を決めているわけではない。そこには個体を越えた、時空を越えた、今までの猫たち。自分の制御外の、何ものかのうごめきがあって、それによって動かされている。私ではなく、私の指示命令(コマンド)と、私の指示命令の外側にうごめいている何かがそれら全部としての私が、次を決める。

意味はどんどん脱色されていく。最初に想定されていた現在も未来も、すでにない。一週間を倍にしたら二週間ではない。余命二ヶ月とか、残り時間とか、そんなことではない。一日!一日!が繰り返す。それは掛け替えのないひとつの単位で、それがそのまま繰り返す。