欲望

知覚の複数の束、ひとつひとつのことをエージェントと考えるなら、そのなかのかぎられた一部が「中枢」となって、知覚の質を確定させる強い要素としてはたらき、甘さとか痛みとか柔らかさとか明るさとか暗さとか、そういった諸要素間が相互に干渉しながら、自我の制御を経た作用と反作用の繰り返しの中から、結果的にいま私が感じた知覚的結論「赤い」が生じる、という理解を、とりあえず思い浮かべることはできる。

それと同時に、我々一個体もまたひとつのエージェントであり、この世界に無数に存在するエージェントのひとつであり、そのそのなかの一部が「中枢」となり自己組織化するとき、我々はその他のエージェントとして「中枢」に仕え、「中枢」に対してある負い目や気掛かりを感じつつ、「中枢」が代表する何かを元々の私にあったはずの何かとしてあらためて受け取りつつ、「中枢」を鏡に映った私であるかのように感じながら私の生を送る。そのような理解もまた可能だ。

私の欲望ではないけれども、誰かの欲望であるのを期待できるもの、すなわち「価値」である。だから私はひとまずそれを溜め込む、それは「信用」である、というのは今更ながら、驚くべきことだ。この発想、すなわち二重化された欲望の読み込み力、がなければ、おそらく中枢化は起こりえないし、貧富の差も起こりえない。世界はもっと静的なものであったことだろう。そのことの是非はわからないけど、もしその作用がなければ、人間はもっと動物のように、小さな頭部のままで、生活していたのではないか。

共通の夢、共有可能な希望、視線を合わせなくても目指すことの出来る場所…それは悪い言い方をすれば、先取りされた他人の欲望ではないのか。人間同士はいったいどのようにすれば、常に良好なままで、ときには互いに交歓し、ときには互いに裏切りあえるのか。