リバー・オブ・グラス

ザ・シネマメンバースで、ケリー・ライカート「リバー・オブ・グラス」(1994年)を観る。

フロリダ州マイアミという地名から思い浮かべるイメージ、この景色がそれのようでもあり、そうでもないよう感じもする、何か白けているというか、間延びしてるというか、妙なとりとめのなさがある。でも実際の風景って、こういうものだよな、とも思う。

生まれ育ったこの地で、気付けば結婚して子供もいるけど、どうもそんな時間の経過自体に、実感がないというか手応えをおぼえてないというのか、私の人生こんなはずじゃなかった的な後悔とまでは行かない、そこまで強く湧きおこる忸怩たる思い、みたいなのは無いのだけど、まだ幼い我が子たちに、母として自分が対峙している手応えもなくて自覚も持てなくて、なんとなく腑に落ちぬもの、身の内に何か不確かで潜在的な別のうごめきがあるようでもあり、何にせよテンション低めに、ただぽやーんとした日々を送っている。そんな女がいる。

観ていて、ああそんな女だな、と思うのは、彼女の身体運動、ヘンな体操、逆ブリッジとか、ヘンな踊り、あるいはプールに飛び込んでひとしきり水中でゆらゆらする、そんな彼女自身の身体が担ってきた時間的厚みが、そこに見えるかのようだからだ。

彼女の父親はもともとミュージシャン(ドラマー)だったけど、結婚を機に音楽はやめて警察官になった。自宅には今もドラムセットが設置されている。そんな警察官の父親が、あるとき拳銃を紛失してしまう。

また隣町には、やはり鬱屈した気分で日々を過ごしてる、このまま一生この地で暮らすことになる未来にウンザリしてる三十手前の男がいる。実家で祖母と母親と暮らしている。八時になったら母親が起こしに来る。金も無いしどこにも行けずに、同じような毎日を送るだけだ。

拳銃はなぜか彼の手元にやってくる。このことがきっかけで物語が始まる。

人生において、ある一線を越えてしまうこと、自分が犯罪者と呼ばれるものへ変わること。…そういったことへの不安と期待、希望と絶望を、人は自分の未来に対して、自分なりに想像することは出来るのだけど、現実は常に想像を裏切るし、想像は常に現実ほど細やかじゃないし、細部がともなってないし、ときにはより残酷だし、ときには子ども扱いされてるかのように甘い。

その手応えのなさ、予想のつかなさ、自分の浅はかさ、行き過ぎた空想の粗さ、小さな枠内の都合の良さを思い知らせるような、この現実という空虚、それを越えたら生きる意味自体が変わってしまうはずなのに、その境界線の見えなさ、わかりにくさ、そしてあまりにも強固すぎる日常の単調さこそが、本作の描き出すものだろう。

それが郊外的な埃っぽいざらついた風景の中で単調さこそ美徳とも言うべきオフビート気味のロックサウンドに時折乗せられつつ、各音の粒立ちの目覚ましいドラムソロを響かせつつ、同じ調子のまま描かれる。